【湾曲し火傷し爆心地のマラソン】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

「俳句」は日本の伝統的な芸能の一つで、いまや世界中で詠まれ、愛されています。

 

今回は、数ある名句の中から金子兜太の「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」という句をご紹介します。

 

 

この俳句は印象的ですが、そう思う理由に前衛的な表現があることに関係しています。

 

本記事では、「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきます。

 

「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」の作者や季語・意味・詠まれた背景

 

湾曲し 火傷し 爆心地のマラソン

(読み方:わんきょくし かしょうし ばくしんちのまらそん)

 

この句の作者は「金子兜太(かねこ とうた)」です。兜太氏は、昭和から平成にかけて活躍した前衛俳句の俳人です。

 

季語

この句には季語がなく、無季俳句として扱われています。

 

(※「マラソン」は冬の季語として扱われることもありますが、季語の事典「季語歳時記」には記載がありません)

 

兜太は前衛俳句を詠むことで知られています。

 

前衛俳句は定型俳句のように季語に頼るのではなく、俳句が詩として成立することに重点を置いています。

 

そのため今回は季節ではなく、物事に重点を置いているため季節は重要視されていません。

 

意味

この句の意味は・・・

 

「長崎の爆心地でランナーが走る姿は、原爆のために体が湾曲したり、やけどを負って苦しむ人の姿に重なった」

 

となります。

 

この句が詠まれた背景

この句は、兜太が1958年に長崎県で詠んだ句で、句集「金子兜太句集」に収録されています。

 

兜太は当時日本銀行に勤めており、その年の2月に長崎へ転勤になりました。そして、原爆で被災した浦上天主堂に近い場所を住まいとしていました。

 

爆心地近くをよく散歩していた兜太はこのように語っています。

 

「国語辞典に「鸞曲(湾曲)」という字があり、目から離れなくなった。しばらくすると「火」が出てきて、長距離ランナーの姿の映像が出た。それはこの地の人々と重なったが「鸞曲」し「火傷」が現れた。」

 

つまり、爆心地近くで見つけた被爆跡を見たことで、その印象から句を作ることができたということです。

 

「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」の表現技法

破調

定型俳句の五・七・五を念頭に置きながら、字余りや字足らずで表現された句を破調と呼びます。

 

今回の句を文字数で切ると、以下のようにと五・九・五の音律になっています。

 

「わんきょくし/かしょうしばくしんち/のまらそん」

(※意味上は「わんきょくし/かしょうし/ばくしんちのまらそん」)

 

この句は自由律俳句に思われますが、兜太は定型俳句として句作し、中句が字余りのため破調として扱われます。

 

破調することで、爆心地での様子やマラソンランナーが苦しがっている様子をより際立たせています。

 

比喩表現

比喩とは、物事の説明や描写に類似した他の物事を借りて表現することをいいます。印象を強めたり、感動を高めたりする効果があり、短歌では良く使われる技法です。

 

今回は「マラソン」部分が比喩にあたります。

 

マラソンランナーが走りつかれて息切れしたり、体をくねらせて必死に走っている様子を被爆の逃げ惑う様子に重ねています。

 

マラソンランナーという新しい言葉による比喩表現を使うことで、被爆の苦しむ様子が現在まで引き寄せられる効果が生まれています。

 

「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」の鑑賞

 

【湾曲し火傷し爆心地のマラソン】は、前衛的な表現で句作された、原爆の強烈なイメージを現代に手繰り寄せる句です。

 

前衛的であると言える部分に、「無季俳句」「破調」のほかに、作り方の面が挙げられます。

 

それは、爆心地という強烈な言葉や事象が様々なイメージを浮かび上がらせてこの句を作ったという点です。

 

俳句は一般的に写生して詠まれることがほとんどですので、こちらの句のようにイメージを浮かび上がらせて句作する手法は、当時はあまり見られず、前衛的だったのです。

 

(※写生・・・実物・実景を見てありのままに写し取ること)

 

そして、今現在の長崎で行われているマラソンと被爆の様子を重ね合わせることで、原爆投下の事実は過去のものではないとする姿勢が見られます。

 

今回の物事を重ね合わせる手法は、読み手が現在と過去を重ねる効果があります。

 

被災の生々しい様子を今現在あるもののように、読み手は感じることができます。

 

作者「金子兜太」の生涯を簡単にご紹介!

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(金子兜太 出典:Wikipedia

 

金子兜太(かねこ とうた)。1919年生まれ2018年没。埼玉県出身の俳人です。

 

金子家の長男として生まれ、2歳から4歳までは父の仕事の関係で上海に住み、以降は埼玉県で育ちました。

 

高校在学中に本格的に句作するようになり、加藤楸邨に師事します。その後、東京帝国大学を卒業すると日本銀行に入行しますが、海軍経理学校に入校したことから、太平洋のトラック島へ中尉として赴きます。

 

餓死者も出る厳しい環境でしたが奇跡的に生きのび、1947年に日本銀行へ復職します。復職後は日本国内を転勤しながら句作を続け、日本銀行は55歳の定年まで働きました。

 

また、現代俳句協会名誉会長や文化功労者に選ばれ、現代俳句における中心人物として知られています。

 

句作の特徴は前衛的で俯瞰的に物事を詠んだり、読み手にとって難解な句も多くあり、前衛俳句のリーダー的存在とも言われていました。

 

 

金子兜太のそのほかの俳句

 

  • 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
  • 水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る
  • 銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく
  • 彎曲し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン
  • 人体冷えて東北白い花盛り
  • 霧の村石を投(ほう)らば父母散らん
  • 暗黒や関東平野に火事一つ
  • 梅咲いて庭中に青鮫が来ている
  • おおかみに蛍が一つ付いていた
  • 夏の山国母いてわれを与太という