【卯の花に兼房見ゆる白毛かな】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

江戸時代に活躍して、いまなお絶大な人気を誇る俳人「松尾芭蕉」。

 

旅を愛した芭蕉は日本の各地を旅し、多くの句を詠みました。親しまれている多くの句には句碑となっているものも多くあります。

 

芭蕉の著書のなかでも、門人・河合曾良とともに奥州、北陸道を旅してまとめた俳諧紀行文「おくのほそ道」はファンも多く、芭蕉の足跡を訪ねて実際旅をする方も絶えません。

 

今回はこの「おくのほそ道」の集録されている卯の花に兼房見ゆる白毛かなという句をご紹介します。

 

 

本記事では、卯の花に兼房見ゆる白毛かな」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきます。

 

「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」の季語や意味・詠まれた背景

(平泉の卯の花清水 出典:Wikipedia

 

卯の花や 兼房見ゆる 白毛かな

(読み方:うのはなや かねふさみゆる しらがかな)

 

こちらの句の作者は、松尾芭蕉とともに奥州平泉を訪れた門人「河合曾良(かわいそら)」です。

 

曾良は、芭蕉の門人(弟子、門下生)であり、公私ともに芭蕉と行動を共にしました。

 

「おくのほそ道」の旅も芭蕉は曾良と連れ立っていきました。

 

季語

この句の季語は「卯の花」、季節は「夏」です。

 

卯の花は、初夏に白い小さな花をつける低木で、日本の山野に広く分布しています。

 

意味

この句を現代語訳すると・・・

 

「卯の花の白い花を見ていると、白髪を振り乱して戦ったといういにしえの武将、増尾兼房の姿が浮かんでくるようだ。」

 

という意味になります。

 

一見して、よくわからない句だなと思うかもしれません。

 

じつは「兼房」という人物についての知識がないとこの句は意味がとれません。

 

松尾芭蕉と曾良は平安時代後期に平泉の地で栄耀を極めた奥州藤原氏、そしてかれらとともに滅んだ源義経をしのび、平泉の地を訪れています。

 

 

句中にでてくる「兼房」とは、増尾兼房のこと。源義経の家臣であり、老齢の身でありながら義経によく仕え、主君の命運尽きたと見ても忠義を曲げず、武士として勇壮な最期を遂げたといわれる人物です。

 

「義経記」(ぎけいき)という軍記物に書かれている人物で、実在の人物ではなく架空の人物であるといわれますが、義経に忠実だった伝説の家臣なのです。

 

真白な卯の花に、白髪を振り乱して戦ったであろう老齢の忠臣の姿を重ねて曾良は句を詠んだのです。

 

「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」が詠まれた背景

(卯の花清水句碑 出典:Wikipedia)

 

この句は、「おくのほそ道」の中でも最も有名な章段に書かれている句のひとつです。

 

「おくのほそ道」は、元禄2(1689)の旅の記録ですが、松尾芭蕉がこの年に欧州を巡る旅に出たのには理由がありました。

 

一つは、芭蕉が崇拝する伝説の歌人、西行法師の500回忌にあたる年であるということ。そして、もう一つは、源義経と奥州藤原氏の一族が滅んで500年目にあたるということです。

 

芭蕉は、西行法師のゆかりの歌枕(和歌に詠まれた名所)をめぐり、奥州平泉の奥州藤原氏と義経の終焉の地に立つことで、いにしえの人たちの事績をしのび、追悼し、鎮魂する目的を持っていたとされます。

 

奥州の平泉はかつて、奥州藤原氏が治める京都に続く人口第二位の大きな都市でした。奥州藤原氏とは、藤原清衡(きよひら)を初代とし、二代目基衡 (もとひら)、三代目秀衡(ひでひら)を指します。平安時代の末期、源頼朝と対立し、奥州藤原氏をたよって落ちのびてきた源義経とともに、奥州藤原氏も滅ぼされました。

 

松尾芭蕉と曾良は、平泉の地で藤原氏の残した遺構を見てまわります。義経や家臣らが最期を遂げた地で芭蕉たちは感慨深く立ち止まります。

 

そこで芭蕉は以下のように書き記しています。

 

「【国破れて山河あり、城春にして草青みたり】と、笠打ち敷て時のうつるまで涙を落としはべりぬ。」

(意味:古代中国の詩人杜甫の【国は戦に負けてなくなっても山や河は変わらずにあり、かつて城であったところも春ともなれば青い草が生い茂る、人の営みのなんと儚いことよ。】という詩のとおりのありさまを見て、かぶっていた笠を敷き、腰を下ろして長いこといにしえの人々に想いを馳せて涙を流したことです。)

 

そして・・・

 

夏草や 兵どもが 夢の跡

(意味:今でこそ夏草が生い茂っているこの地で、かつては源義経や奥州藤原氏の兵たちが、功名をかけて戦っていたのだ)

 

という句を詠んでいます。

 

芭蕉がこの句を詠んだ時に、付き従っていた曾良も「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」と詠んだのです。

 

主である芭蕉は、源義経を思って句を詠んでいる芭蕉に従う自分は、義経の忠臣であった兼房を偲ぼうという思いもあったのでしょう。

 

「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」の表現技法

 

この句で使われている表現技法は・・・

 

  • 切れ字「かな」
  • 暗喩

 

になります。

 

切れ字「かな」

切れ字とは、その句の感動の中心を表す言葉です。

 

代表的なものに「かな」「や」「けり」などがあり、「…だなあ」といった意味で訳されます。

 

この句は「白毛かな」の「かな」が切れ字に該当します。

 

この「白毛」、つまり白髪とは源義経の忠臣、増尾兼房の白髪頭のことを指します。

 

作者は、最期まで主君に忠実だった兼房を思い、大きく心を動かされていることが分かります。

 

暗喩

暗喩とは、たとえの表現のひとつです。

 

「~のような」「~のごとし」などのような、比喩であることがはっきりわかるような書き方ではなく、たとえるものを直接結びつけ、言い切るように表現した比喩です。

 

例を挙げると、「彼女はぼくにとって太陽のような存在だ。」という表現は直喩、「彼女はぼくにとって太陽だ。」という表現は暗喩です。

 

この句では「卯の花に兼房見ゆる」(卯の花を見ていると兼房が見えてくる)と表現していますが、本当に兼房があらわれるわけではもちろんありません。

 

この地で忠義を果たし、討ち死にした兼房のことを思っていると、まるで卯の花が兼房のようにも見えてきた、兼房の姿を幻視したということです。

 

暗喩の表現を使って、作者の感じた兼房の姿を印象的に伝えています。

 

「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」の鑑賞文

 

いにしえの武将たちをしのび、芭蕉と曾良は古戦場に立ち尽くしています。

 

初夏で、草木が生い茂り、夏の訪れを告げる卯の花が真っ白に咲いていました。世の無常を感じさせる光景が広がっていたことでしょう。

 

この地に散った源義経や奥州藤原氏の一族を思い、芭蕉は涙にくれます。

 

従う曾良は、義経の家臣兼房を思います。義経と兼房、芭蕉と曾良という主従の対比が興味深い句です。

 

時がくれば芽吹いて花を咲かせる植物、大きく姿を変えることのない山河といった自然に対して、忠義を立て、戦い散っていく武将たちの営みの儚さを芭蕉も曾良もかみしめていたことでしょう。

 

無常観をかみしめつつも、500年の時を経てこの地で勇猛に戦った武将の姿を卯の花に重ねて見出した曾良の句には、この地で終焉を迎えた人々への追悼の意も込められていました。

 

作者「河合曾良」の生涯を簡単にご紹介!

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(河合 曾良 出典:Wikipedia

 

「卯の花に」の句の作者、河合曾良は、慶安2年(1649年)信濃国、現在の長野県に生まれました。

 

しかし、両親や親族は死別。伊勢国長島の寺の住職に引き取られて育ちます。

 

その後、長島藩主・松平康尚に仕え、姓を「河合」と名乗るようになります。

 

30代半ばころ松尾芭蕉門下に入り、旅にも随行するようになりました。「おくのほそ道」に随行した時は、「曾良旅日記」を残し、「おくのほそ道」を知るための貴重な資料ともなっています。

 

芭蕉より5歳ほど若かった曾良ですが、芭蕉の逝去から十数年、宝永7年頃死去したとされています。

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