日本にはこれまで先人達に詠まれた俳句が、数多く残っています。
それらの作品の中には、道端に咲いている花をテーマに詠んだ句も多いです。
今回ご紹介していく「菜の花がしあはせさうに黄色して」の句も季節の花を題材に詠まれた俳句の1つです。
冬の陽、あたたか
ゆれて、ゆったり
●菜の花がしあはせさうに黄色して●
(細見綾子) pic.twitter.com/QGTGQ2zPbx— 風の駅の伝言板/そよかぜ鼓太郎 (@tokyo21211) January 29, 2015
本記事では、「菜の花がしあはせさうに黄色して」の季語や意味・表現技法・解釈、鑑賞について詳しく解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「菜の花がしあはせさうに黄色して」の季語や意味・背景・解釈
菜の花がし あはせさうに 黄色して
(読み方: なのはなが しあわせさうに きいろして)
こちらの句の作者は、「細見綾子(ほそみ あやこ)」です。
早速こちらの俳句について詳しくご紹介していきます。
季語
こちらの季語は「菜の花」で季節は「春」を示します。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「黄色い葉の花がしあわそうに咲いているよ」
という意味になります。
暖かい春のポカポカとした日差しの中で、黄色のキレイな菜の花が咲いている様子が詠まれている俳句です。
この句が詠まれた背景
こちらの句を解釈する上で、絢子自身の人生を知ることが必要です。
絢子は小さい時に父を亡くし、さらに22歳という若さで夫そして母までも失ってしまいます。
また自分自身は同年に肋膜炎を患い、長いこと闘病生活を続けていました。
この句は絢子が28歳の時に詠まれています。
元気であれば女性として輝いている世代なのに絢子はこれまでに家族の死、そして病気とつらいことに向き合い続けて来たのです。
悲しみと苦しみのどん底にいた時に、まるで己の人生とはかけ離れたかのように幸せそうに咲いている菜の花が目に飛び込んできたのです。
解釈
柔らかな菜の花の黄色は、平和・穏やかさを象徴している色です。
寒い冬が終わりを告げ、ポカポカと暖かい春の日差しに包まれて、菜の花達が咲いている平穏なひと時を詠んだ句です。
しかし、そんな菜の花が咲き誇っている春うららかなや穏やかな日と絢子の境遇は対照的なものでした。
「私は愛する人たちを早くに亡くし、自分自身も病気で苦しんでいるのに菜の花達は幸せそう。」と自分自身の人生を悲嘆する姿が浮かんできます。
絢子が若くしていかに苦労をし、つらい毎日を送って来たのかという心情がこちらの句では詠まれています。
句の持つイメージから絢子自身が幸せな人生をあたかも送ってきたように誤解されやすいだけに、意外な一面のある句と言えます。
「菜の花のしあはせさうに黄色して」の表現技法
こちらの俳句で使われている表現技法は・・・
- 「菜の花」の部分の擬人法
- 「黄色して」の部分の「て止め」
です。
「菜の花」の部分の擬人法
こちらでは「菜の花」の部分が、「擬人法」となっています。
「擬人法」とは人間ではない植物や動物などを、まるで人のように表現する技法です。
擬人法を使用することで、テーマにしている題材が強調され、心に残る作品に仕上がります。
こちらの俳句では「菜の花」があたかも人のごとく示めされています。
これにより、絢子と「菜の花」の現在の境遇に距離感があることが、意図的に表現されているのです。
幸せそうな「菜の花」と不遇の境地に立たされる絢子の姿をイメージしやすくなっています。
「黄色して」の部分の「て止め」
こちらの句では「黄色して」の部分が「て止め」となっています。
俳句の基本ルールでは、「て止め」は避けるべきという説が主流です。
しかし、「黄色して」と表現することで「黄色=穏やか・平穏さ」がイメージしやすくなり、インパクトのある俳句に仕上がっています。
「菜の花のしあはせさうに黄色して」の鑑賞文
「菜の花がしあはせさうに」という表現は、一般的にしません。
それだけにあえて「菜の花が幸せそうに咲いてる」様子を詠むことで、絢子の私生活がいかに暗いものであるかが伺えます。
28歳という若さだけに、本当だったら子供や夫ともに暖かく楽しい人生を送っていたはずです。
それだけに、春の穏やかな陽気の元でたくさんの菜の花が咲いている様子は、とても平和なひと時に感じられたのです。
「本当だったら私もあの菜の花のように幸せな人生を送っていたはずなのに・・・。」という絢子の切ない気持ちが、ヒシヒシと感じられます。
作者「細見綾子」の生涯を簡単にご紹介!
(細見綾子 引用元)
細見綾子は昭和から平成にかけて活躍した女性の俳人です。
1907年(明治40年)に現在の兵庫県丹波市(旧兵庫県氷上郡芦田村)に生まれ、実家は江戸時代から続く裕福な名主でした。
1923年に日本女子大学国文科に入学し、1927年に同大学を卒業したと同時期に東京大学医学部助手の太田庄一と結婚しています。
ですが2年後(絢子22歳)の時に夫を結核で亡くし、自身も肋膜炎となり実家に戻りました。その際に診療に当たっていた医師田村菁斎の勧めにより俳句をはじめました。松瀬青々の俳誌「倦鳥」に入会し、その年に初入選をします。
1947年に沢木欣一と結婚。沢木は俳句雑誌『風』の創刊者で、絢子も同人として参加していました。その後病気の完治もあって1956年に東京都武蔵市に引っ越しています。
その後、1956年母校戸田小学校の校歌を作詞。1952年に第2回茅舎賞受賞。1975年句集『伎芸天』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。1979年句集『曼陀羅』などにより蛇笏賞を受賞します。
そして、1981年、勲四等瑞宝章を受章と見事な功績を残し、1997年90歳で亡くなっています。
細見綾子のそのほかの俳句
- そら豆はまことに青き味したり
- チューリップ喜びだけを持つてゐる
- ふだん着でふだんの心桃の花
- つばめ/\泥が好きなる燕かな
- 鶏頭を三尺離れもの思ふ
- 女身仏に春剥落のつづきをり