【葉桜の下帰り来て魚に塩】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

五・七・五の十七音で、作者の心情や見た景色を詠む「俳句」。

 

季語を使って表現される俳句は短い言葉の表現の中で、作者の心情や自然の豊かを感じることができます。

 

今回は、細見綾子の有名な句の一つ「葉桜の下帰り来て魚に塩」という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「葉桜の下帰り来て魚に塩」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「葉桜の下帰り来て魚に塩」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

葉桜の 下帰り来て 魚に塩

(読み方:はざくらの したかえりきて うおにしお)

 

この句の作者は、「細見綾子(ほそみあやこ)」です。

 

昭和から平成にかけて活躍した女性俳人です。日常生活に視点を置き、やさしく、やわらかな言葉でたくさんの俳句を詠みました。

 

季語

この句の季語は「葉桜(はざくら)」、季節は「夏」です。

 

「葉桜」は、桜の花が散って若葉だけが青々としている桜のことです。ピンクの桜の花びらが散って葉桜になってしまったという寂しい思いと、新しく出てきた青々とした若葉の美しさを愛でる思いがあります。

 

葉桜の時期は地域によって変わりますが、桜の花びらが散り始める4月から新緑で緑の若葉がいっぱいになる6月ごろまでを指します。旧暦では、4・5・6月は夏(初夏)を表しますので、初夏を表す季語となります。

 

また、「葉桜」以外にも「桜若葉」「花は葉に」という葉桜を表す季語があります。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「葉桜となった桜の木の下を通って帰ってきた。料理をするために、魚に塩を振っている。」

 

という意味です。

 

満開の桜は美しく、桜が開花している期間は特別な時間です。お花見などをしたり、人々は非日常を感じられます。一方、桜の花が咲いている時期は足を止めて桜を見上げますが葉桜になると、足を止めて見上げる人はほとんどいなくなってしまいます。

 

桜の季節が過ぎ、葉桜になったため、なんでもない日常がまた戻ってきたという意味が感じられます。

 

この句が詠まれた背景

この句は、昭和31年に刊行された句集『雉子(きぎす)』に収められています。

 

この句集は、昭和27年から昭和30年までの4年間の作品が集められたものですので、この期間に詠まれた作品だと考えられます。この頃、作者は家族で金沢に住んでいたため、45歳から49歳ごろに金沢で詠まれた作品と考えられます。

 

作者は肋膜炎という病気を長く患いながらも、43歳の時に長男を出産しています。病気の中、子育てをし、家事をする中で目に付いた何気ない日常の姿を俳句に詠んだのでしょう。

 

「葉桜の下帰り来て魚に塩」の表現技法

「魚に塩」の体言止め

体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める表現技法です。

 

体言止めを用いることで、美しさや感動を強調したり、読んだ人を引き付ける効果があり、その言葉の印象や余韻を残すことができます。

 

「魚に塩」という言葉で、普段料理をする姿・なんでもない日常の印象を表しています。

 

句切れなし

「句切れ」とは、俳句のリズム、言葉の意味や内容の切れ目のことです。

 

この句は、五・七・五の十七音の中に、最後まで意味が区切れるところがありませんので、「句切れなし」となります。

 

「葉桜の下帰り来て魚に塩」の鑑賞文

 

作者は桜の開花している特別な時間が過ぎ、それぞれの人が日常生活に戻っている様子を毎日する料理の「魚に塩を振る」という行為で表しています。

 

「葉桜」という言葉からは、満開でピンクに染まっていた桜の花が散ってしまったという寂しさも感じられますが、それよりも若葉で覆われ緑色になった桜の木の爽やかな様子が感じられます。

 

この句では主婦の何気ない日常が詠まれていて、長く病気を患いながらも懸命に過ごしている作者の当たり前でなんでもない日常に対する感謝が表現されているように思えます。

 

満開の桜でピンク色に染まった華やかな春が終わり、夏に向かっていく、そんな穏やかな日常の姿が目に浮かびます。

 

作者「細見綾子」の生涯を簡単にご紹介!

(細見綾子 引用元

 

細見綾子は、明治40年(1907年)兵庫県氷上郡芦田村、現在の兵庫県丹波市青垣町に生まれました。本名は沢木綾子です。

 

昭和2年に日本女子大学校の国文科を卒業し、卒業時に結婚しますが、2年後に夫を結核で亡くしました。夫を亡くした直後には母も亡くし、綾子自身は肋膜炎を発病しました。

 

綾子氏は丹波に帰郷し、その療養中(22歳のとき)に医師で俳人でもあった田村菁斎の勧めで俳句を始めます。松瀬青々に師事し、俳句の基本を学び、俳誌「倦鳥」に入会し、投句、初入選しました。

 

昭和9年からは大阪府池田市で療養しながら句作を続けます。昭和12年には、師事していた松瀬青々が亡くなり、その遺稿集の編集などに携わりました。昭和21年、沢木欣一らが「風」を創刊した際に同人として加わり、「風」の編集・発行人を務めます。

 

昭和27年には句集『冬薔薇』により第二回川端茅舎賞を受賞。その他にも、句集『伎芸天』で芸術選奨文部大臣賞や『曼陀羅』で飯田蛇笏賞を受賞しました。

 

そして翌年、沢木欣一と結婚し、昭和31年には長年患っていた肋膜炎が完治したため、東京都武蔵野市に転居。昭和40年には自身の母校である芦田小学校の校歌の作詞を手掛けました。

 

そして平成9年、綾子氏は90歳で亡くなりました。細見綾子は日常生活に視点を置いた作品が多く、見るもの感じるものを的確に表現している俳句を多く詠みました。

 

細見綾子のそのほかの俳句