【焼き捨てて日記の灰のこれだけか】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

俳句とは、季語と五七五の17音の定型を基本とする短い詩のことを指します。

 

しかし、俳句の中にはこの枠に縛られず、自由に書かれた「自由律俳句」と呼ばれるものがあります。

 

今回は、自由律俳句の俳人として名高い種田山頭火の作である「焼き捨てて日記の灰のこれだけか」という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「焼き捨てて日記の灰のこれだけか」の季語や意味・表現技法・鑑賞などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「焼き捨てて日記の灰のこれだけか」の季語や意味・詠まれた背景

 

焼き捨てて日記の灰のこれだけか

(読み方:やきすててにっきのはいのこれだけか)

 

この句の作者は「種田山頭火(たねださんとうか)」です。明治時代に生まれ、大正から昭和にかけて活躍した自由律俳句の俳人です。

 

この句は1930年山頭火氏が49歳のときに詠まれた句になります。

 

季語

こちらの句に季語はありません。

 

山頭火が得意とする自由律俳句には「無季自由律俳句」と呼ばれるものがあり、「あえて季節に関する語を入れない」という特徴があります。

 

今回の「焼き捨てて日記の灰のこれだけか」という句は、「無季自由律俳句」に分類されます。

 

季節に関する情報をあえて入れないことで、詠みたい事柄をダイレクトに相手に伝える効果があります。

 

意味

この句を直訳すると・・・

 

「日記一冊を燃やしてできるのは、日記一冊分の灰だけ。」

 

となります。

 

過去の清算をするために、これまで書き留めていた日記を燃やします。

 

いくらたくさんの言葉や想いを綴ったとしても、所詮一冊の日記を燃やして残るのは日記一冊分の灰にすぎない、という少し強がっているかのような口調が印象的です。

 

この句が詠まれた背景

「焼き捨てて日記の灰のこれだけか」という句は、種田山頭火が49歳のときに詠んだ句です。

 

山頭火は40歳を過ぎると出家し、乞食行脚(こつじきあんぎゃ)の修行の旅に出ます。

 

この句は、幾度目かの旅に出る前に、自らの過去を抹消し生まれ変わりたいという思いから、それまで書き溜めた日記を焼き捨てます。

 

しかし、捨てても、捨てても、捨てきれないものというものがあり、ただひたすらに涙が流れると山頭火は言っています。

 

「焼き捨てて日記の灰のこれだけか」の表現技法

自由律俳句

「自由律俳句」とは、定型に縛られず、詠み手の感情の赴くまま、自由に表現することに重きが置かれた俳句です。

 

この句に季語はありません。季語(有季)と五七五の17音を定型とする俳句のルールに従っていませんので、「無季自由律俳句」となります。

 

したがって、この句は旅の出発に先だって、これまで書き留めた日記を焼き捨てる心境を、心の赴くままに表現したシンプルな俳句であるといえます。

 

また、「焼き捨てて」という出だしもこの句の注目ポイントです。動詞の活用形の一つ「焼き捨て」に接続助詞「て」を用いることで、主節との意味関係を示します。

 

ここでは、ある一つの事象(日記を焼き捨てること)を次の段階へ導いています。つまり、「焼き捨て」で動きを感じさせ、接続助詞「て」を加えることで、焼き捨てた動作が次の動作へ続きます。

 

ここでは、日記を焼き捨て、するとその日記は灰になったという一連の流れが生み出されます。

 

「焼き捨てて日記の灰のこれだけか」の鑑賞文

 

19309月、再び行乞の旅に出ることに決めた山頭火は、これまでの日記を焼き捨て、残骸の灰を見つめて、嘆息をつきます。

 

たくさんの句とともに、膨大な日記を残していたといわれている山頭火。何冊もの日記を持っての旅はためらわれたのでしょうか?思案の末、燃やしたのではないかと考えられます。

 

焼き捨てることが山頭火にとっての過去の清算、沈黙の懺悔であったといわれています。

 

日記が焼かれたあとには、ほんのひと握りの灰だけが残ります。積み上げてきたページに対し、あまりにも少ない灰の量に驚くとともに、捨てても捨てきれない心に刻まれた気持ちに涙する山頭火の心情が読み取れます。

 

作者「種田山頭火」の生涯を簡単にご紹介!

(種田山頭火像 出典:Wikipedia

 

種田山頭火(1882年~1940年)は日本の自由律俳句の俳人で、本名を種田正一(たねだしょういち)といいます。

 

山口県防府市の大地主の家庭に長男として生まれた山頭火ですが、小学生のときに母が自死するなど、家庭環境には恵まれていませんでした。

 

31歳の頃、荻原井泉水が主宰する『層雲』に初めて投稿句が掲載さ、その後『層雲』にて頭角を現します。

 

無類の酒好きで、酒が入ると高揚し、いつも何かをしでかす山頭火は、酒による失敗を繰り返し、自責の念にかられます。精神的に不安定な面があり、大学を中退したり、命を絶とうと試みたりしますが、1925年、耕畝(こうほ)と改名し、出家。翌年乞食行脚に出ます。

 

病的な精神から名句・名文の数々が排出され、一時的とはいえ、精神の安定が得られることもありました。

 

晩年は、師である荻原井泉水友人らの助けにより、享年58歳、安らかに最期の時を迎えることができました。

 

種田山頭火のそのほかの俳句

種田山頭火生家跡 出典:Wikipedia)