五・七・五のわずか十七音に心情や風景を詠みこむ「俳句」。
さまざまな年代に親しまれており、日本文化として海外にも紹介されています。
今回は、有名句の一つ「をとといのへちまの水も取らざりき」をご紹介します。
をととひのへちまの水も取らざりき pic.twitter.com/ju5EyiDEHY
— 神野紗希 (@kono_saki) October 27, 2014
本記事では、「をとといのへちまの水も取らざりき」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「をとといのへちまの水も取らざりき」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
をとといの へちまの水も 取らざりき
(読み方:おとといの へちまのみずも とらざりき)
この句の作者は、「正岡子規」です。
正岡子規は明治時代の俳人であり、日本の近代の俳句の発展に大きく貢献しました。
この句は、「糸瓜咲きて痰のつまりし仏かな」「痰一寸糸瓜の水にも間に合はず」の二句とともに子規の亡くなる前日に詠まれました。
三句あわせて、子規の「絶筆三句」と呼ばれています。
季語
この句の季語は「へちま(糸瓜)」、季節は「秋」です。
へちまは、花や実を鑑賞するだけでなく、タワシや民間療法のひとつとして飲み薬・塗り薬としても利用することができます。
茎を切って瓶にさしておき、数日経つとへちまから水が取れます。この水に去痰作用があり、咳止めの薬として民間療法で使用されてきました。
子規の庭にへちまを植えたのは、子規の看病をしていた妹の律だといわれています。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「 一昨日のへちまの水を取ることができなかった」
という意味です。
ここでの一昨日は、十五夜ではないかと言われています。
「へちまの水」は、十五夜に採ったものは病によく効くという言い伝えがありました。一昨日の十五夜のへちまの水を取る体力も残っていなかったという子規の容態の悪さがうかがえます。
この句が詠まれた背景
正岡子規は34歳の若さで生涯を閉じました。
その亡くなる前日に詠まれたのがこの句を含む絶筆三句です。
弟子の河東碧梧桐が子規の体を支え、筆を取るのを手伝いながら書きました。
書いた後は筆を投げ捨て、もう筆を取ることはありませんでした。子規は、その日のうちに昏睡状態となり、翌日に亡くなりました。
これらの句は、若くしてこの世を去ることになってしまった子規の辞世の句となりました。
「をとといのへちまの水も取らざりき」の表現技法
こちらの句で用いられている表現技法は特になく、句切れなしとなります。
句切れとは、意味や内容、調子の切れ目のことです。
切れ字があるところが、句の切れ目とされます。切れ字は「や」「かな」「けり」が代表とされ、詠嘆や強調を表します。
「取らざりき」の表現が切れ字ではないかと思うかもしれませんが、こちらは切れ字ではありません。
打消しの助動詞「ず」が連用形の「ざり」に変化したものに、過去の助動詞「き」がついて「ざりき」となります。動詞について「~なかった」という意味になります。
「をとといのへちまの水も取らざりき」の鑑賞文
子規の容態はとても悪く、民間療法のひとつであった「へちまの水」では到底治すことのできなかった状態だったとされています。
「取らざりき」という表現から、「体力がなくて取ることができなかった」という子規の容態の悪さを読み取ることができます。
他にも、「十五夜の水を取れていれば」と悔やむ気持ちもあったという解釈もあります。
「へちまの水も取らざりき」の「も」に注目した見方もあります。
一句と二句ではへちまの水を漢字で「糸瓜」と書いています。しかし、この三句めでは、「へちま」とひらがなで書いています。ひらがなで書くことは強調の表現とされています。
「も」は「へちまの水さえも」という強調の表現だと解釈されています。もう自分に残っている時間はほとんどない、それは十五夜のへちまの水を取り忘れてしまったからなという子規のユーモアな表現が感じられます。
子規は30歳から長い間、床についていて自殺を考えたこともありましたが、妹や周りの人々の看病や助けに、踏みとどまりました。
人よりも長く、生と死について考える時間の多かった子規は、この絶筆三句に思いを残して亡くなりました。子規の亡くなった9月19日は「糸瓜忌」と呼ばれています。
作者「正岡子規」の生涯を簡単にご紹介!
(正岡子規 出典:Wikipedia)
正岡子規は1867年に現在の愛媛県松山市に生まれました。本名は常規(つねのり)といいます。2歳で失火のため自宅が全焼し、5歳の時には父が40歳で病死したため、子規が幼くして家督を相続しました。
幼少期の子規は叔父の佐伯半弥に習字を習い、母方の祖父で儒学者の大原観山に素読を習い、漢詩も学びます。
その後、13歳で入学した東京大学予備門時代に夏目漱石と出会い、その交流は亡くなるまで続きます。
21歳に、養祖母の死に際して追悼句として瓜の句を詠みました。しかし、その年の8月に初めて喀血、肺結核を発症します。
子規とはホトトギスの漢字表記です。ホトトギスは「血を吐くまで泣き続ける」「口の中が赤い」そうで、その姿と自分の結核で血を吐いている姿を重ねたと言われています。
その後、25歳で日本新聞社に入社しますが、病の進行は早く、28歳の時には一時重体となります。
静養後も連日のように句会を開催するなど精力的に活動を続けていましたが、1902年9月19日に永眠しました。
正岡子規のそのほかの俳句
(前列右が正岡子規 出典:Wikipedia)