【砂の如き雲流れゆく朝の秋】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

五七五の17音を定型とする短い詩、「俳句」。

 

近代に入ると俳句は有季無季を問わず定型で作る人や自由律で作る人、さらには口語書きの俳句までスタイルは様々です。

 

今回は、数ある名句の中から正岡子規の作「砂の如き雲流れゆく朝の秋」という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「砂の如き雲流れゆく朝の秋」の季語や意味・表現技法・鑑賞などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「砂の如き雲流れゆく朝の秋」の季語や意味・詠まれた背景

 

砂の如き 雲流れゆく 朝の秋

(読み方:すなのごとき くもながれゆく あさのあき)

 

この句の作者は「正岡子規」です。

 

正岡子規は、俳諧や和歌を研究し、自らも創作活動に励んだ明治期の俳人です。江戸時代から続いてきた俳諧を、俳句という芸術に進化させたのも彼です。

 

彼の生涯は儚くも短いものでしたが、成し遂げた業績は偉大です。

 

季語

こちらの句の季語は「朝の秋」です。

 

「朝の秋」は「秋の朝」と同意で、いずれも「秋」の代表的な季語です。

 

意味

この句の現代語訳は・・・

 

「朝の清々しい空に、砂のような雲が流れている。あぁ、もう秋なのだなぁ」

 

といった意味になります。

 

秋になると雲も秋の雲に変わります。それを見てしみじみと秋を実感している句になります。

 

この句が詠まれた背景

この句は1896(明治29)正岡子規が29歳のとき、松山に帰郷した際に書かれた句です。

 

この年の前年、子規は喀血して重態に陥りましたが、一命をとりとめます。そのような中、清々しい秋の朝を迎え、その様子を写実的に詠んだ一句です。

 

この時期、子規は子規庵で句会や歌会を開き、翌1897年には俳句雑誌『ホトトギス』を創刊するなど、俳句の世界に大きく貢献しました。

 

「砂の如き雲流れゆく朝の秋」の表現技法

 

この句で使われている表現技法は・・・

 

  • 比喩(直喩)
  • 体言止め

 

になります。

 

比喩(直喩)

この句では、秋の空に浮かぶ雲のことを「砂の如き」といっています。

 

このように、「ごとく」「ごとし」「ごとき」「ようだ」というように、ある物事を何かにたとえて、「~のようだ」と表現する技法を比喩(直喩)と言います。

 

ここでは、雲の様子を砂にたとえることによって、句全体が生き生きとしてきます。また、細かい説明を省くことで、読み手がイメージしやすくなります。

 

体言止め

体言止めとは、文末を名詞や代名詞などの体言で止める技法のことを言います。

 

文末を体言止めにする事で、文章全体のイメージが強調され読者に伝わりやすくなり、また句にリズムを持たせる効果もあります。

 

この句は語尾を「朝の秋」で締めくくることによって、読み手にイメージを委ねています。

 

清々しく高い秋の空。そこへうっすらと浮かぶすじ雲が思い浮かんできます。

 

「砂の如き雲流れゆく朝の秋」の鑑賞文

 

現代の私たちも同じように見ることができる秋の雲、すじ雲。

 

120年以上も昔に、子規はこの雲を見上げ、「砂の如き雲流れゆく朝の秋」と詠んでいます。

 

「砂の如き雲」とはよく言ったもので、見たままの様子を言葉で巧みに表現しています。(現代の私たちであれば、インスタ映えといったところでしょうか…余談)

 

また、下五に「秋の朝」ではなく「朝の秋」と表現しているところがこの句の特徴です。

 

ある朝、秋の一風景の中に砂の如き雲を見つけたのなら「秋の朝」と表現するでしょう。しかし、「朝の秋」ということは、いつもの朝の風景の中にふと砂の如き雲を見つけ、「あぁ、秋なのだなぁ」と感じたと読み取ることができます。

 

読み手にもしみじみと秋を雰囲気が伝わってくる句になっています。

 

作者「正岡子規」の生涯を簡単にご紹介!

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(正岡子規 出典:Wikipedia)

 

日本人ならば、誰もが一度はその名を聞いたことのある俳人、正岡子規(1867年~1902年)。

 

日本の近代文学に多大な影響を及ぼした文学者の一人で、その生涯はとても短く、35歳という若さでこの世を去りました。

 

正岡子規は、本名を常規(つねのり)といい、伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)の松山藩士の家庭に生まれました。幼少の頃から漢詩や戯作、書画などに親しみ、中でも絵画に関しては、画家でもある与謝蕪村を尊敬し、自らもスケッチを描いたりしていたと言われています。

 

1895年に開戦した日清戦争で子規は従軍記者として遼東半島に渡ったものの、喀血して重態に陥ってしまいます。

 

「子規」という俳号は、「ホトトギスが血を吐くまで泣き続ける」といわれていることに自分をなぞらえたようです。

 

30代の頃から晩年まで、子規はほぼ寝たきりの状態でしたが、病床にあるからといって作品に陰惨さは全く感じられません。

 

病状は悪化する一方で、1902年に35歳という若さでこの世を去りました。子規は、実に死の2日前まで作品を書き続けていたといわれています。

 

正岡子規のそのほかの俳句

(前列右が正岡子規 出典:Wikipedia)

 

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