【早稲の香や分け入る右は有磯海】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

俳句は五七五の十七音で構成される、世界でも短い詩歌です。

 

短い中に季節を表す季語や、古くから詠われている歌枕を詠み込み、季節や風景を描写します。

 

今回は、松尾芭蕉が「奥の細道」で詠んだ句の一つである「早稲の香や分け入る右は有磯海という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「早稲の香や分け入る右は有磯海」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「早稲の香や分け入る右は有磯海」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

早稲の香や 分け入る右は 有磯海

(読み方:わせのかや わけいるみぎは ありいそうみ)

 

この句の作者は「松尾芭蕉(まつお ばしょう)」です。

 

「奥の細道」をはじめとする多くの旅の紀行集で有名な江戸時代前期の俳諧師で、江戸時代の三大俳人の1人です。一門から多くの弟子を輩出し、現代の俳壇にも大きな影響を及ぼしています。

 

季語

この句の季語は「早稲(わせ)」で、「秋の季節」の季語です。

 

早稲とは稲の品種の一種で、早く実を結ぶもののことを言います。現在の用語では「早生」と書き、有名なコシヒカリなどが該当する品種です。早稲は夏の短い寒い地方でよく作られる品種で、8月に穂が出て9月には刈り取られます。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「早めに実った稲の香りがするなぁ。この道を分け入って右に行けば、かの有名な有磯海だ」

 

という意味です。

 

季節はちょうど早稲の刈り入れ時で、越中国は米どころとして有名でした。有磯海とは今の富山湾西部の海で、万葉集の頃からの歌枕として有名です。

 

この道は馬が通れないため芭蕉らは人足を雇って旅を続けていました。その道筋は現在の北陸自動車道とほぼ同じとされており、高台から一面の田んぼと海を一望しただろうと考えられています。

 

詠まれた背景

この句は「奥の細道」の中の越中国(富山県)に差し掛かったときに詠まれた句です。

 

1689(元禄2)年713日から14日にかけての旅路で、現在の新暦に換算すると8月の末に訪れたことになります。早稲とは9月までには刈り取られる品種のため、ちょうど稲の刈り入れ時に通りかかったことになるでしょう。

 

新潟県糸魚川市から現在の北陸自動車道とほぼ同じ海沿いの道を歩いていた芭蕉一行は、富山県入善町に差し掛かりました。ちょうど富山湾が一望できる芭蕉で詠まれたこの句は、昔からの歌枕である有磯海を見ることができた喜びにあふれています。

 

ただ、芭蕉がこの付近を歩いた日は猛暑であり、疲労困憊になった芭蕉たちは2日で富山湾を踏破しています。この句が詠まれたえ「越中路」という項には、近くにある藤の花の名所である「担籠(たこ)の藤浪」にも行きたかった、と「奥の細道」には述懐してあります。

 

そのため、あまりじっくりと見られなかった悔しさが「分けいる右は」という表現に込められているのかもしれません。

 

「早稲の香や分け入る右は有磯海」の表現技法

「早稲の香や」の切れ字

切れ字の「や」は詠嘆や呼び掛けを表す助詞です。句切れとして一般的に使われるもので、初句によく使用されます。

 

この句も初句「早稲の香や」で句切れているため、「初句切れ」となります。

 

牛馬も通れない道を進んできた先に、一面に広がる田んぼと実っている稲を見た時の感動が、「早稲の香や」という詠嘆の切れ字から感じ取れる表現です。読んでいる人にまず一面の刈り入れ時の田んぼを想像させて、一呼吸つかせる効果があります。

 

「有磯海」の体言止め

体言止めは、語尾を名詞や代名詞で終わらせる表現技法です。体言止めにすることで、読後の印象を強めて余韻を残す効果があります。

 

この句では有名な歌枕である「有磯海が見える」という感動を表す効果です。稲の香りに包まれた後に見える有磯海という、ダイナミックな自然の風景を表現しています。

 

「早稲の香や分け入る右は有磯海」の鑑賞文

 

この句は、牛馬も通れないほど険しい道を歩き続けた末に見えてきた一面の稲穂の実る田んぼと、その右手に古来より詠われた有磯海が見えたことへの感動に満ちた俳句です。

 

「奥の細道」は歌枕や名所を巡る旅路のため、苦労してたどり着いた有磯海の眺めは最高のものだったでしょう。切れ字と体言止めを使用していることからもその感動が伺えます。

 

猛暑と疲れで長居できなかったため、他の地域での記録に比べると「奥の細道」での記載も短いものですが、それだけに強い感動が伝わってくるこの句が引き立ちます。

 

 

作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!

(松尾芭像 出典:Wikipedia)

 

松尾芭蕉は1644(寛永21)年に伊賀国上野、現在の三重県伊賀市に生まれました。名を忠右衛門、のち宗房(むねふさ)と変えています。18歳のときに北村季吟に師事し、俳諧の道を歩み始めました。

 

初期の芭蕉の俳句は流行を取り入れ、テンポ良い音律と奔放さを持っていました。俳諧の師である宗匠として独立した後は、漢詩を俳句に取り入れるなど新しい俳句の形を模索していましたが、次第に自然の美の中にある静けさを詠むわび・さびの作風を確立させます。

 

芭蕉は1684年の「野ざらし紀行」から1689年の「奥の細道」まで多くの紀行文と句集がセットになった紀行集を発表し、歌枕を巡る旅から旅への生活を送ります。1694年に関西に向かいますが、旅の途中の大阪で病に倒れて51歳で亡くなりました。

 

松尾芭蕉は多くの弟子を取ったことでも知られていて、宝井其角や服部嵐雪、向井去来など、その後の江戸俳壇を代表する弟子たちを輩出しています。特に有名な弟子は蕉門十哲と呼ばれ、現在の俳壇にも多大な影響を及ぼすほどです。

 

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia