日本の近代の俳句は、明治時代の俳人、正岡子規に始まります。
江戸時代の松尾芭蕉や与謝蕪村の俳諧、発句に親しみ、研究し、俳句の革新運動を精力的に進めた人物です。
生涯に20万ともいわれる句を詠んだ子規の作品の中で、一番有名だともいわれる句「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」。
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺~♬♫
~法隆寺の茶店に憩ひて~自宅で生ったという柿を頂きました。
とっても甘くて美味でございました(❀ฺ→∀←)気持ちだけでも「法隆寺の茶店」に思いを馳せて.:*・✿ pic.twitter.com/AL1bWnNP8N
— 花:暫くの間、体調不良によりリプお休みします🙏 (@lilacblueblue) November 7, 2014
もしかしたら、正岡子規の名を知らなくてもこの句は知っている、という人もいるかもしれません。
今回はこの「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者などについて徹底解説していきます。
目次
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の作者や季語・意味
柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺
(読み方:かきくえば かねがなるなり ほうりゅうじ)
この句の作者は「正岡子規」です。
正岡子規は、和歌や俳諧などの国文学の研究もよくし、近代の短歌や俳句の礎を築き上げた明治時代の文学史に燦然と輝く星のような文学者です。
季語
この俳句の季語は「柿」、季節は「秋」です。
柿は、奈良・大和の名産品です。大和の柿は「御所柿」と呼ばれる甘柿で、江戸時代から知られていました。
正岡子規は、大の柿好きでこの御所柿もたいへんに好んで食べていたようです。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「柿を食べていると、折よく法隆寺の鐘の音も聞こえてきたことだ。」
という意味になります。
柿と言う秋の果物を季語にして、秋の訪れを実感しているのです。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」が詠まれた背景
(法隆寺境内にある句碑 出典:Wikipedia)
この句の初出は明治28年(1895年)11月8日号の「海南新聞」です。
「法隆寺の茶店に憩ひて」という前書きがあります。
つまり、旅先で訪れた奈良の法隆寺の近くの茶店で休憩しているときの詠だというのですね。
正岡子規は、明治28年10月下旬、奈良を訪れていました。その時の出来事ということです。
正岡子規の随筆、「くだもの」には、奈良の宿で、女中が柿をむいてくれたことが書かれています。それを読むと、この句の成立前夜のことが書かれています。
「(前略)やがて柿はむけた。余は其を食ふてゐると彼は更に他の柿をむいてゐる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音がひとつ聞こえた。彼女は初夜が鳴るといふて尚柿をむき続けてゐる。余には此初夜といふのが非常に珍しく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。」
(意味:女中がむいてくれる柿を食べていると、さらに続けて女中は柿を向き続けている。奈良で食べる奈良の柿の格別な味に感慨を覚えていると、ボーンという鐘の音が聞こえてきた。女中にどこの鐘かと尋ねると、東大寺の初夜の鐘(午後八時ころ鳴らす鐘)であるという。)
柿を食べていたら、意外にも鐘の音が聞こえてきたという体験は、宿で過ごしていた夜の出来事だったのです。
子規は、このときの感動や驚きを法隆寺の茶店という舞台設定をこしらえて句を作ったのです。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の表現技法
この句で使われている表現技法は・・・
- 二句切れ
- 倒置法
- 体言止め
になります。
二句切れ
句の中で、「かな」「や」「けり」などの切れ字がつくところ、もしくは意味上、リズム上大きく切れるところ(普通の文であれば句点「。」がつく箇所)を句切れと呼びます。
この句は「柿食えば鐘が鳴るなり」で一度分が終止し、「。」がつきます。
二句目にあたるところで切れるため、「二句切れ」句となります。
倒置法
倒置法は、言葉の順序を普通の並びとは逆にする表現技法で、意味を強める働きがあります。
この句は、普通の日本語の順序でいえば、「柿食えば法隆寺では鐘が鳴るなり」となるでしょう。
そこを「鐘が鳴るなり」をあえて先に持ってくることで、折よく鐘の音をきたものだという面白みを表しています。
③体言止め
体言止めとは、文の終わりを体言・名詞で終わることで余韻を残したり、印象を強めたりする表現技法のことです。
この句は「法隆寺」という体言で終わっています。
古都、奈良を代表する寺であり、奈良らしさを強調しています。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の鑑賞文
まことに奈良らしい風情の中に、秋の訪れを実感していることを表す句です。
古都奈良の茶店で、地元名産の柿を食べていたところ、タイミングよく法隆寺の鐘の音が響いてきました。
柿を食べていたことと鐘がなったことには何の因果関係もないけれども、折よく鐘が響いてきて愉快に感じたのでしょうか。
茶店でのんびり柿を食べて休憩をするくらいですから、天気は秋晴れと想像することができます。
青い空に、鮮やかなオレンジ色の柿。色彩感も豊かな句です。
奈良の御所柿は甘く、ジューシーで、そこはかとなく粘りも感じられる極上品です。
それを味わっているところに鐘の音が響いてくるわけですから、五感がフルに働いていることになります。
ユーモアも感じさせる明るい句ですが、正岡子規が旅をすることができたのはこの時が最後となりました。
「柿食えば」の句を詠んだころの正岡子規
(正岡子規 出典:Wikipedia)
「柿食えば」の句を詠んだころ、正岡子規はどのような暮らしをしていたのでしょうか?
「柿食えば」の句からは、ほのぼのとした明るさやユーモアも感じるのですが、この時の子規はなかなかに深刻な状況にありました。
この句が詠まれた明治28年(1895年)、当時の子規は28歳です。
明治25年(1892年)に日本新聞社に入社。俳句の革新運動に本格的に取り組み始め、俳句に関する本を書いたり、新聞「日本」に俳句の欄を設けたり、精力的に活動し、明治28年(1895年)には日清戦争従軍記者として、中国に渡っていました。
俳人として、ジャーナリストとして、活動の幅を広げていたところでした。ところが、そんな子規に病が襲ってきたのです。
中国からの帰国の途上、子規は大量の喀血をして帰国後すぐに入院。一時は重体に陥りました。喀血(血を吐く)というのは結核の症状で、これは治癒率の低い、恐ろしい感染症です。
5月に帰国したものの、兵庫県の病院で入院して過ごし、住まいのある東京にはなかなか帰ることができませんでした。8月末に子規は、故郷松山に療養のため向かいます。
この時、松山で子規を迎え入れたのは、かの有名な文豪、夏目漱石でした。
(夏目漱石 出典:Wikipedia)
夏目漱石は、正岡子規とは帝国大学の同窓生でした。子規と漱石は深い友情で結ばれており、「漱石」という雅号も、もとは子規がつかっていたもののひとつであったと言われています。松山で、子規と漱石は多くの句を作って過ごしました。
このころの夏目漱石の句には・・・
「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」
(意味:建長寺の鐘をついた。境内ではぎんなんが散っていることだ。)
という句があります。
秋の木の実と寺の鐘と言う取り合わせ、句の調子がよく似ています。
子規の「柿食えば」の句は「海南新聞」11月8日号に発表されたのですが、それをさかのぼること約2カ月。9月6日号に漱石の「鐘つけば」の句が発表されているのです。
「柿食えば」の句は、漱石の「鐘つけば」に触発されて詠まれたともいいます。
松山の漱石のもとで2カ月近くを過ごした子規は、ようやく東京に向けて出発しました。その途上で広島、大阪、奈良に立ち寄っているのです。
奈良で、「柿食えば」の句を詠んだのは10月26日。実際は雨だったようですが、前夜に柿を食べながら聞いた東大寺の鐘の音に抱いた感興を法隆寺の近くの茶店という舞台設定に変えて、子規は「柿食えば」の句を詠んだのです。
このころ、子規は腰痛も抱えていました。子規は、リウマチだろうと考えていたようですが、これは結核菌が脊椎に入り込んで病変を起こす、脊椎カリエスの症状の始まりでした。病は確実に子規の体を蝕み、苦しめていたのでした。
このような子規の病状から、子規は実際に法隆寺まで出向いてはいないのではないか、東大寺の初夜の鐘を法隆寺の鐘によみかえただけでなく、法隆寺を訪れたことさえもフィクションだったのではないかともいわれています。
そうだとしても、これだけ人の口に膾炙し、愛されている句はそうあるものではありません。
正岡子規と柿の関係は切っても切り離せない
子規は随筆「くだもの」の中で、このようにも述べています。
「柿などヽいふものは従来詩人にも歌よみにも見離されてをるもので,殊に奈良に柿を配合するといふ様な事は思ひもよらなかつた事である。余は此新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかつた。」
(意味:柿と言うものは、もともと詩人、歌人が題材として取り上げることもなく、奈良の風物として柿を句に詠みこむ、奈良と柿の取り合わせは思いもよらないことだった。私はこの新しい取り合わせを見出したことがうれしかった。)
奈良、柿を詠みこむというアイディアは子規にとってうれしい発見で、他にも下記に関する句を詠んでいます。
「柿落ちて 犬吠ゆる奈良の 横町かな」
(意味:柿が落ちてきて、犬が吠えている、秋の風情の奈良の横丁であることよ。)
「渋柿や あら壁つづく 奈良の町」
(意味:青空のもと、渋柿が赤く実っている。なんとまあ、白い壁の続く奈良の町によく映えて見事なことよ。)
「晩鐘や 寺の熟柿の 落つる音」
(意味:夕方になる鐘の音が鳴り響いている。寺の境内では、よく熟した柿がぽとりと落ちる音がする。秋も深まったことだ。)
これらは、奈良の柿のある風景を詠んだ句とされます。
また、正岡子規は、このほかにも柿への愛を感じさせる句を詠んでいます。
「柿食ヒの 俳句好みしと 伝ふべし」
(意味:柿が好物だった男は俳句も好んでいたと言い伝えてほしい。)
明治30年(1897年)11月12日の詠です。「我死にし後は(私が死んだ後には)」と言う前書きがついています。
この年、俳句雑誌「ホトトギス」が創刊。子規も俳句の選者をつとめます。
「ホトトギス」は子規の死後も弟子の高浜虚子らによって引き継がれ、日本の俳壇を牽引していく雑誌をなってきました。(※「ホトトギス」の創刊は日本の俳句史上重要な出来事です)
しかし、子規の病状は悪化の一途をたどっていました。
「柿くふも 今年ばかりと 思ひけり」
(意味:柿を食べるのも、今年で最後だと思いつつ味わったことだ。)
これは、明治34年(1901年)の詠。この翌年、9月19日に正岡子規は生涯を閉じました。この年の柿は、ぎりぎり子規の口には入らなかったかもしれません。
日本の近代以降の俳句を確立した俳人は、柿をこの上もなく愛した人でもあったのです。
2005年(平成17年)には、正岡子規が「柿食えば」の句を詠んだ10月26日を全国果樹研究連合会カキ部会が、「柿の日」として制定しました。
正岡子規のそのほかの俳句
(子規が晩年の1900年に描いた自画像 出典:Wikipedia)
- 紫陽花や昨日の誠今日の嘘
- をとゝひのへちまの水も取らざりき
- ずんずんと夏を流すや最上川
- 茗荷よりかしこさうなり茗荷の子
- 赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり
- 夏嵐机上の白紙飛び尽す
- 牡丹画いて絵の具は皿に残りけり
- 枝豆や三寸飛んで口に入る
- 山吹も菜の花も咲く小庭哉
- 砂の如き雲流れゆく朝の秋
- 毎年よ彼岸の入りに寒いのは
- 雪残る頂ひとつ国境
- いくたびも雪の深さを尋ねけり
- 柿くふも今年ばかりと思ひけり
- 鶏頭の十四五本もありぬべし