【雨がちに端午近づく父子かな】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

俳句は、五七五という短いリズムで楽しめる、すぐれた文芸です。

 

自分で詠みだけでなく有名な句を鑑賞することで、自分の俳句の感覚を磨くことができます。

 

今回は、石田波郷の有名な句の一つ「雨がちに端午近づく父子かな」という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「雨がちに端午近づく父子かな」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「雨がちに端午近づく父子かな」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

雨がちに 端午近づく 父子かな

(読み方:あめがちに たんごちかづく おやこかな)

 

この句の作者は、「石田波郷(いしだはきょう)」です。

 

石田波郷は、昭和時代に活躍した俳人です。

 

加藤楸邨、中村草田男らとともに「人間探求派」とよばれ、人間と自然を愛し多くの歌を残しました。現代でも、波郷の句は人気が高いです。

 

 

季語

この句の季語は「端午(たんご)」、季節は「夏」です。

 

「端午(たんご)」は五月五日のことで、現在では子どもの日となっています。

 

端午は男の子が生まれたことと、成長をお祝いする日です。古くは、薬草で病気や災いを祓うことを目的としていました。

 

「端午」は、「月の端の午の日」。つまり「月の最初の午の日」を意味していました。「午(ご)」と「五(ご)」が入れ替わって、五月五日となったといわれています。

 

「端午」の行事は、中国に由来します。日本では奈良時代から「端午の節句」として行われるようになりました。

 

「端午の節句」が「男の子の節句」になったのは、江戸時代に入ってからです。

将軍に男の子が生まれると、のぼりを立てるなどして祝ったり、55日を幕府の式日とし、大名や旗本に祝いの品を奉じさせるようになりました。

 

やがてこの風習は庶民にも広まり、現在の「端午の節句」となったのです。現在は「鎧(よろい)」や「兜(かぶと)」を飾り、「こいのぼり」を立てるなどして男の子の誕生を祝ったり、成長を願います。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「ずっと雨が続いている中、もうすぐ端午の節句の日が来る。それを心待ちにしている父と子がいることだなあ。」

 

という意味です。

 

「雨がち」は「雨勝ち」のことです。雨が数日間降り続いていることを意味します。端午の節句が近いのに、雨が続いている。「雨がちに」という語句で、その情景をうまく描いています。

 

この句が詠まれた背景

波郷には、修大(のぶお)という息子がいます。この句での「父子(おやこ)」は、波郷と息子のことを詠っていると考えられます。

 

息子修大が5月生まれであることから、「端午の節句」の行事は波郷にとっても、息子の成長を祝う大変意味のあるものだったのでしょう。

 

「端午の日には、雨がやんでほしい。大空に元気よくこいのぼりが泳いでほしい。」そんな気持ちがよく表現されています。

 

「雨がちに端午ちかづく父子かな」の表現技法

「父子かな」の「かな」の切れ字

「かな」は、感動を強く伝えるとともに、句に余韻をもたせる切れ字です。「~だなあ」という意味で、多くは下五の語尾につき、句をまとめる効果があります。

 

この句では「父子かな」と終わることで、「父親と子供がいることだなあ。」と断定的な強い感動を表現しています。

 

下五に切れ字があるため、この句は「句切れなし」の句です。

 

「雨がちに端午ちかづく父子かな」の鑑賞文

 

この句は、端午の節句を心待ちにしている父子(おやこ)の気持ちが表れています。

 

端午の節句の日には、こいのぼりを上げ、大空を泳いでいる姿を見たい。

 

しかし、雨の日が続いているのでそれができるだろうか、と父子がやきもきしている様子が伝わってきます。

 

父と子で空を見上げるとても微笑ましい句です。

 

また、波郷は、切れ字を大切にした俳人でした。「俳句の韻文精神徹底」を唱えて、「切れ字」を重視し伝統的な俳句を作ることに力を注いでいました。

 

この句でも、切れ字をうまく使い、印象を深めることに成功しています。

 

作者「石田波郷」の生涯を簡単にご紹介!

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(石田波郷 出典:Wikipedia

 

石田波郷(はきょう)。1931生まれ1969没。本名は哲大(てつひろ)、愛媛県出身の俳人です。

 

農家の五男として生まれ、高校生の時に俳句を始めます。

 

高校卒業の頃になると、新興俳句運動の中心人物であった水原秋桜子に師事し、上京しました。しかし、伝統的な俳句技法を重視する姿勢を取り、新興俳句運動とは異なった句作をしていました。

 

31歳ごろ戦地で肺病を発病し、その後は手術と入退院を生涯に渡って繰り返すようになります。

 

戦後は俳誌の創刊や現代俳句協会の設立に携わり、精力的に活動していました。

 

初期の作風は青春あふれる作品が多いですが、病と闘うようになってからは人間性を詠み続け、人間探求派として知られています。

 

石田波郷のそのほかの俳句