【一羽来て啼かない鳥である】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

俳句は五・七・五の十七音で表現する、世界でも短い詩の1つです。

 

季節の自然や出来事を取り入れた季語を詠み込むことによって、多彩な表現と感情を表現できます。

 

今回は、種田山頭火の有名な俳句の一つである「一羽来て啼かない鳥である」をご紹介します。

 

 

本記事では、「一羽来て啼かない鳥である」の季語や意味・詠まれた背景・表現技法・作者について徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「一羽来て啼かない鳥である」の作者や季語・意味・詠まれた背景

 

一羽来て啼かない鳥である

(読み方 :いちわきて なかないとりである)

 

この句の作者は「種田山頭火(たねださんとうか)」です。

 

 

種田山頭火は明治から昭和にかけて活躍した俳人で、季語を使わず五七五の韻律も使用しない無季自由律俳句で知られています。また流浪の旅をしていたことでも有名で、一部は日記として行程が残されています。

 

 

意味(現代語訳)

 

こちらの句を現代語訳すると…

 

「一羽だけ飛んできて啼かない鳥であるなぁ」

 

という意味になります。

 

俳句に詠まれる鳥といえば、鳴き声を称えられるホトトギスやウグイス、群れで飛ぶ光景を詠まれる雁(がん)などがあります。

 

しかし、ここでは「一羽」「啼かない」とだけ詠んでおり、これらの鳥ではないことがわかります。

 

季語

この句は無季俳句であるため、季語は存在しましせん。

 

俳句は季語を詠むという決まりを守る伝統俳句と、季語を詠み込まずに作る無季自由律俳句があり、種田山頭火は後者の無季自由律俳句を得意としました。

 

季語をあえて入れないことで作者の心情をダイレクトに伝えたり、普遍的な心構えであることを示す効果があります。

 

この句が詠まれた背景

この句は作者が1938年に、山口県山口市にある湯田温泉街に構えた「風来居(ふうらいきょ)」で詠まれた一句です。

 

この時の作者は1936年頃から禅の修行僧の姿である雲水で、山梨県から長野県、東北地方を旅しています。

 

旅を終えて故郷のある山口県で庵を構え、一息ついているところで詠まれました。しかし、「風来」という言葉を庵に付けていることからも、1箇所に留まるつもりがなかったことが伺えます。

 

 

「一羽来て啼かない鳥である」の表現技法

無季自由律俳句

この俳句は季語を含まない無季俳句であり、五七五の韻律ではない自由律俳句でもあります。

 

四季に囚われずに自由に詠む無季自由律俳句は、無駄のない「一行詩」と扱われます。切れ字などの決まりもなく、口語で詠まれることが多いのも特徴です。

 

無季自由律俳句は種田山頭火の師である荻原井泉水によって提唱され、弟子である種田山頭火や尾崎放哉によって有名になりました。

 

「一羽来て啼かない鳥である」の鑑賞文

 

この句は伝統俳句での定石である「鳥の鳴き声」「群れて渡ってくる鳥」のどちらにも当てはまらない表現をしています。

 

無季自由律俳句というこちらも伝統俳句のルールではない俳句を詠むことによって、作者自身の寂しさを浮き彫りにしている一句です。

 

鳴き声もあげず、一羽で自身の住む風来居にやってきた鳥に、自分自身を重ねていると解釈されています。作者は人生の多くを雲水の姿での放浪の旅に費やしており、家族との関係も悪化の一途を辿っています。

 

鳴かず、群れない鳥の姿に母の死から埋めることのできない「寂しさ」を感じ、しみじみと感じ入っている様子が伺えます。

 

作者「種田山頭火」の生涯を簡単にご紹介!

(種田山頭火像 出典:Wikipedia

 

種田山頭火は1882年(明治15年)に、現在の山口県別府市に誕生しました。本名は種田正一(たねだしょういち)といいます。

 

山頭火は大地主の家に生まれて、当時としては裕福な家庭で育ちましたが、10歳の時に母が自死してからは人生が大きく変わってしまいました。現在の早稲田大学に進学するほど、頭脳明晰な人物でしたが、持病のために志なかばで退学せざるを得ませんでした。

 

以降は、父の酒屋を一緒に切り盛りしていきますが、やがて家業までも倒産。さらには、父や兄弟、さらに妻子とも離別して、孤独な人生を歩みます。40歳の時には自殺を図りますが、結局は未遂に終わり、命を助けてくれた寺院で過ごします。

 

自らも僧侶として仏の世界に進む道を選択しますが、僧として修行するには歳が行き過ぎており、修行僧になる夢は叶いませんでした。最終的に、山頭火は拓鉢を持って諸国を巡る行脚僧の道を進みますが、その生活は放浪生活となんら変わりませんでした。

 

山頭火は諸国を旅するなかで、自由律俳句のスタイルで数多くの作品を残しました。それらの作品の多くが、己の人生や旅先で目にした風景などをテーマにしています。

 

たしかに、山頭火の人生は波乱に満ちていましたが、俳人としては「自由律俳句」を代表する読み手としてその名を残しました。

 

種田山頭火のそのほかの俳句

種田山頭火生家跡 出典:Wikipedia)