俳句とは、五・七・五の音節から成る日本語の定型詩であり、世界最短の歌になります。
日本固有の文化であり、短い文章の中に、自分の感動した気持ちや強く感じたことをのせています。
今回紹介する俳句は「義朝の心に似たり秋の風」です。
【週末には旧中山道を歩く 十八日目 47】
墓の傍に芭蕉句碑「義朝の 心に似たり 秋の風」、化月坊句碑「その幹に 牛もかくれて さくらかな」 pic.twitter.com/a03aks4hWb— 青空に花満開 (@hanagamankaida) June 7, 2015
本記事では、「義朝の心に似たり秋の風」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「義朝の心に似たり秋の風」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
義朝の 心に似たり 秋の風
(読み方:よしともの こころににたり あきのかぜ)
この句の作者は、「松尾芭蕉(まつおばしょう)」です。
松尾芭蕉は、江戸時代5代将軍徳川綱吉の頃に栄えた元禄文化を代表する文化人の一人です。江戸時代前期に活躍し、中期・後期に活躍した与謝蕪村や小林一茶とあわせて江戸時代の三大俳人の一人として称されています。
季語
この句の季語は「秋の風」、季節は「秋」です。
秋の風とは読んで字のごとく、秋になって吹く風のことを指します。
立秋のころに吹く秋の風は、秋の訪れを知らせる風でもありました。
秋は二十四節気で「初秋」「仲秋」「晩秋」と3つに区分され、これらのことを「三秋」といいます。
※三秋・・・立秋(8月7日ごろ)から立冬の前日(11月6日)までの期間を指します。
この句における秋の風は「仲秋」であると考えられます。
秋の風は、ひっそりとした物悲しさや物寂しさを表現することが多くあります。夏とは違う雰囲気で、どことなく寂しさを感じさせる秋の風を感じると、身にも心にもしみてなにか哀れな気持ちとなりました。
俳人は秋の風を感じると、物悲しさや物寂しさを作品にしました。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「源義朝の妻の常盤御前(ときわごぜん)の塚で、秋の風が吹いている。義朝の悲壮な心に似た雰囲気のある寂しげな秋の風だ。」
という意味です。
源義朝とは、平安時代末期に活躍した武士です。鎌倉幕府を創立した源頼朝や源平合戦で大活躍した源義経の父親にあたる人物です。
(元平治合戦源義朝白河殿夜討之図 出典:Wikipedia)
その義朝の妻である常盤御前のお墓の前で、物悲しい秋の風を感じています。芭蕉は義朝や常盤御前への想いを馳せて、秋の風に合わせて句を詠みました。
この句が詠まれた背景
この句は松尾芭蕉の最初の紀行文である『野ざらし紀行』に記載されている句になります。
『野ざらし紀行』には43句の俳句が残されています。
松尾芭蕉は江戸から東海道を上り、地元にあたる伊賀へと向かい、奈良や京都、名古屋や岐阜を訪れ、9か月の旅をしました。そして、美濃国(現在の岐阜県)にある常盤御前のお墓を訪れた際に詠まれた俳句です。
【CHECK!!】常盤御前のお墓が建てられた理由
源義朝は、朝廷内における内部抗争である保元の乱(崇徳上皇:兄VS後白河天皇:弟)に後白河天皇側で雇われ、参加しました。
崇徳上皇側には、実の父親である為義がいましたが、父を討ち、保元の乱で勝利を収めます。
しかし、十分に恩賞がもらえず、同じ後白河天皇側についていて恩賞を得ていた平清盛と平治の乱で争います。恩賞の不平等が原因で対立することになりました。結果は義朝が負け、敗走することになりました。
敗れて逃げている途中に、尾張国(現在の愛知県)で部下の裏切りにより、殺害されてしまいます。
妻の常盤御前も夫が平治の乱で敗れたことを知ると子どもを連れて、逃げますが、捕えられます。
そして、平治の乱で勝利した平清盛に愛され、清盛の妻となります。
息子で捕えられていた牛若丸(源義経)が京都の鞍馬山を抜け出して、東国へ走ったと聞いた常盤御前も抜け出し、東国へ向かいます。
しかし、岐阜県の関が原まで来たところで、恩賞目当ての山賊に殺されてしまいます。
これを哀れんだそこの土地の人々が常盤御前を弔い、塚(お墓)を作りました。
そんな寂しい背景のある常盤塚の前で、詠んだ句になります。
『野ざらし紀行』は17世紀後半、義朝や常盤御前が亡くなったのは12世紀後半となりますので、およそ500年前の出来事に想いを馳せた句になります。
「義朝の心に似たり秋の風」の表現技法
体言止め「秋の風」
体言止めとは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める技法のことです。余韻や余情を生じさせ、詠み手を惹きつける効果があります。
この句は、「秋の風」で体言止めされています。
秋の風が最後に来ることによって、秋の風を芭蕉がどのように感じたのか、義朝は一体どのような人生をたどったのかなど気になるところであります。
芭蕉が感じた秋の風と義朝の切なさや寂しさが強調されて伝わってきます。
句切れなし
「句切れ」とは、内容や意味、俳句のリズムの切れ目のことです。
この句は、最後まで意味を区切れるところがありませんので、「句切れなし」となります。
守武の和歌が参考にされている
この句は、室町時代の連歌師である伊勢の荒木田守武の『守武千句』に残っている「月見てや常盤の里へかへるらん 義朝殿ににたる秋風」が参考にされています。
「月見てや常盤の里へかへるらん」の前句に対し、付句の「義朝殿に似たる秋風」に「の心」と入れただけで、句を完成させました。
「義朝の心に似たり秋の風」の鑑賞文
秋に吹く風はどこか寂しい感じがする風です。秋の風の物寂しさや物悲しさを義朝の悲劇に合わせて詠んでいます。
秋の風の物寂しさにより、義朝の無念がますます寂しく感じさせます。
芭蕉は現代の私たちからしてみれば歴史上の人物ですが、芭蕉からすれば、常盤御前や源義朝が歴史上の人物でした。その中で、芭蕉は表舞台で輝くことがなかった常盤御前や義朝の寂しい想いを塚の前で感じとりました。
人の命の儚さや異なった時代における切なさなど、様々なことを感じたことでしょう。
私たち自身も歴史を学ぶと現代がどれだけ豊かで恵まれていることかと気づかされることがあります。もしかしたら芭蕉もそのように感じたかもしれません。
そんな想いや感じたこと、物悲しさを表現する「秋の風」に合わせて、読者の想像力を掻き立てる作品を完成させました。
作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介
(松尾芭像 出典:Wikipedia)
松尾芭蕉は、1644年に伊賀国(現在の三重県北西部)の地侍クラスの農民の子として、生まれました。本名は松尾忠右衛門宗房といいます。
松尾芭蕉は若い頃は、津藩の武士として過ごしました。俳諧は10代半ば頃からたしなみ、北村季吟の指導を受けます。
そして31歳ごろに、俳諧師としてたつために江戸へと下り、談林派の総帥である宗囚に認められ、同派の江戸宗匠として活躍します。
芭蕉の俳諧は自分の内面を見つめるような作風へと大きく変化していきます。そして、今までの俳諧にあきたらず、1684年に、新たに芭蕉俳諧を打ち立て、俳諧を和歌と対等の地位に引き上げます。
人生を旅とし、旅を人生としました。旅をしながら、そこで感じたことを俳句として残しました。そして、その旅を通して『野ざらし紀行』や『奥の細道』などの紀行文が作られていきました。
40代から始めた旅の俳句は、芭蕉50歳で幕を閉じます。
芭蕉が臨終少し前に詠んだ句「旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる」が最後の句になりました。
松尾芭蕉のそのほかの俳句
(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia)