五・七・五のわずか十七音に心情や風景を詠みこむ「俳句」。
詠み手の心情や背景に思いをはせて、いろいろと想像してみることも俳句の楽しみのひとつかもしれません。
今回は、有名な句の一つ「朝がほや一輪深き淵の色」という句をご紹介します。
朝がほや一輪深き淵の色 (与謝蕪村) pic.twitter.com/8iFPb4JnTN
— Lin Yue (@linyue313) September 11, 2015
本記事では、「朝がほや一輪深き淵の色」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「朝がほや一輪深き淵の色」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
朝がほや 一輪深き 淵の色
(読み方 :あさがおや いちりんふかき ふちのいろ)
この句の作者は、「与謝蕪村(よさぶそん)」です。
江戸時代中期に俳人や画家として活躍しました。松尾芭蕉や小林一茶などと並び称される江戸俳諧の巨匠の一人です。
季語
この句の季語は「朝がほ」、季節は「秋」です。
「朝がほ」は朝顔の花です。夏の早朝に咲き、昼間にはしぼんでしまいます。
日本で園芸用によく知られた植物で、夏休みの宿題に育てて観察していた方も多いと思います。
【CHECK!!】秋の季語「朝顔」について
朝顔は咲くのが夏なのに、どうして季語は秋となっているのでしょうか?
これには、明治初期まで使われていた旧暦が関係してきます。
旧暦では、4月~6月を夏、7月~9月を秋とします。
現在使われている新暦では、夏を5月~7月、秋は8月~10月としています。
旧暦と新暦には、1か月近くズレがありますが、俳句では旧暦に沿って季語が決まっており、現代になっても旧暦のまま、季語を使用しています。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「朝顔が咲いている、その一輪の色を見ているとまるで深い淵をのぞきこんでいるようだ。」
という意味です。
朝顔は、紫色や青い色の花というイメージがあります。
さらに、淵には「水を深くたたえているところ」「底が深くてよどんでいるところ」という意味があることから、この淵の色を濃い青色や藍色と現代語訳している場合もあります。
また、禅語に「潤水湛如藍(かんすいたたえてあいのごとし)」という言葉があります。
「水をたたえた淵では、この無色透明な水も、深い藍色にみえる」という意味です。
自然の当たり前の出来事をわかりやすく表現した禅語から、淵の色を藍色と訳している場合もあります。
この句が詠まれた背景
この句は、蕪村句集に収められています。
安永2年(1773年)ごろ、蕪村が57歳の頃に詠んだ句とされています。
蕪村句集は、与謝蕪村が亡くなった一周忌の際に門人の几薫(きとう)が蕪村の詠んだ868句を四季別に編集したものです。
蕪村の研究のための中心資料として、蕪村の手書きの句集が発見されるまで、大きな影響を与えました。
「朝がほや一輪深き淵の色」の表現技法
「朝がほや」の「や」の切れ字
切れ字は「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときに使います。
この句は「朝がほや」の「や」が切れ字にあたります。
俳句の切れは、文章だと句読点で句切りのつく部分にあたります。
「や」で句の切れ目を強調することで、たくさん咲いている美しい朝顔のなかの「一輪の朝顔」をより強調する効果もあります。
また、五・七・五の五の句、つまり初句に句の切れ目があることから、「初句切れ」となります。
「淵の色」の体言止め
体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める表現技法です。
体言止めを使うことで、美しさや感動を強調する、読んだ人を引き付ける効果があります。
蕪村が「まるで淵の色のようだ」と、その朝顔の深い色の美しさに感動する様子を強調しています。
「朝がほや一輪深き淵の色」の鑑賞文
与謝蕪村は画家でもあり、その優れた色彩感覚と写実的な手法から「絵のような俳句を詠む」ことを得意としていました。
蕪村の句を詠むと、まるでその情景が1枚の絵のように、自分の目の前に表れてきます。
このたくさん咲いている朝顔の一輪を見た時に、蕪村は「まるで淵の色のようだ」とその美しさに感動しています。
実際に「淵の色」という決まった色が、あるわけではありませんが、自然に咲いている朝顔が水をたたえている深い淵のような、濃い藍色をして咲いている様子を「淵の色」だと表現したのかもしれません。
この淵を「人生の深淵をのぞいているのではないか」という見方もあります。
この句は亡くなる10年ほど前に作られています。
もし、この朝顔の花の色を、蕪村が深い人生の淵の色とみていたのなら、どのような気持ちだったのでしょうか。
画家として、はなやかで独特な絵画的な美しさを追求し、色彩感覚に優れていた蕪村だからこそ、この一輪の朝顔の花の色に心を動かされたのかもしれません。
作者「与謝蕪村」の生涯を簡単にご紹介!
(与謝蕪村 出典:Wikipedia)
与謝蕪村は、享保元年(1716年)摂津国、現在の大阪府大阪市に生まれました。
本名を谷口信章といい、与謝の姓は結婚してから、蕪村という雅号は40歳近くなってから名乗ったものとなります。
蕪村は、俳人としてだけでなく、画家でもあり、詩人でもありました。
俳句を賛した簡単な絵を添える俳画を、芸術の様式として完成させ、俳画以外に画家としても、日本風な絵や中国風の絵など様々な様式を試しています。また、俳句、漢詩、非定型詩を組みあわせた「春風馬堤曲」など、表現のために、さまざまな方法に挑戦していたとされています。
与謝蕪村は、俳諧の祖と言われる松永貞徳や、江戸前期に活躍し俳諧の芸術性を高めていった松尾芭蕉に強いあこがれと尊敬の念を持っていました。
のちに蕪村は芭蕉の足跡である「おくのほそ道」を実際にたどるため東北地方や関東地方を周遊しています。
丹後地方や讃岐に住み、晩年は京都にて過ごしました。天明3年(1784年)68歳にて永眠します。
蕪村の作品が評価されるようになるのは、蕪村の死後のことでした。正岡子規の「俳人蕪村」(明治29年)という著作によって、蕪村は人々に知られるようになったといわれています。
与謝蕪村のそのほかの俳句
(与謝蕪村の生誕地・句碑 出典:Wikipedia)
- 夕立や草葉をつかむむら雀
- 寒月や門なき寺の天高し
- 菜の花や月は東に日は西に
- 春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな
- 夏河を越すうれしさよ手に草履
- 斧入れて香におどろくや冬立木
- 五月雨や大河を前に家二軒
- ゆく春やおもたき琵琶の抱心
- 花いばら故郷の路に似たるかな
- 笛の音に波もよりくる須磨の秋
- 涼しさや鐘をはなるゝかねの声
- 稲妻や波もてゆへる秋津しま
- 不二ひとつうづみのこして若葉かな
- 御火焚や霜うつくしき京の町
- 古庭に茶筌花さく椿かな
- ちりて後おもかげにたつぼたん哉
- あま酒の地獄もちかし箱根山