【秋の航一大紺円盤の中】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

季語と五七五の17音で詠むことを基本とする「俳句」。

 

日本が誇る伝統芸能の一つですが、「Haiku」として世界中の人々に愛され、親しまれています。

 

今回は、数ある名句の中から中村草田男の「秋の航一大紺円盤の中」という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「秋の航一大紺円盤の中」の季語や意味・表現技法・鑑賞などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてくださいね。

 

「秋の航一大紺円盤の中」の作者や季語・意味

 

秋の航 一大紺 円盤の中

(読み方:あきのこう いちだいこん えんばんのなか)

 

この句の作者は「中村草田男(なかむら くさたお)」です。

 

この句は1929年、中村草田男が28歳のときに詠んだ句で、今なお傑作といわれている名句です。

 

草田男氏が高浜虚子一行の北海道旅行に同行したとき、初めて見た青函連絡船に強い印象を受けて書いた句といわれています。

 

季語

こちらの句の季語は「秋」で、季節は文字通り「秋」を表します。

 

意味

この句は秋の航海を詠んだ句です。現代語訳すると・・・

 

「航海で私は広い海の上にいます。一面海で陸地は見えません。すべてが紺色に広がる海、円い海。今私は、一つの大きな紺色の円盤の中にいるようだ」

 

といった意味になります。

 

航海を題材にした非常にスケールの大きい一句です。

 

「秋の航一大紺円盤の中」の表現技法

 

この句で使われている表現技法は・・・

 

  • 破調(句またがりの破調)
  • 体言止め
  • 比喩(暗喩)

 

になります。

 

破調(句またがりの破調)

この句は御覧の通り、五七五の定型が守られていません。この句は、五六七の18音で書かれており、中七が字足らず、下五が字余りとなっている「破調」と考えられます。

 

秋の航(5) 一大紺(6) 円盤の中(7)

 

五七五の定型から自由になることを目的とする「自由律俳句」は、そもそも俳句の定型がベースにありませんので「破調」とは異なります。

 

こちらの句は、中七と下五がくっついて一つの意味を成していますので、「句またがりの破調」であるといえます。

 

体言止め「円盤の中」

「体言止め」とは、文末を名詞で結ぶ表現技法です。

 

体言止めを使用することにより、文章全体のインパクトが強まり、作者の伝えたい思いをイメージしやすくなります。また、動詞や助詞、詳細な形容が省略されることによって句全体にリズムを持たせる効果もあります。

 

この句は語尾が「円盤の中」で終わっています。

 

細かい説明を省略することによって、紺青の海以外に何一つ見えない大海原と遠くに見える水平線、そこをぐんぐんと進んでいく自分を乗せた船のイメージを読み手に委ねています。

 

比喩(暗喩)

この句では、大海原を「円盤」にたとえています。

 

周りには陸一つ見えず、見渡す限り360度大海原が広がる光景を「円盤」という言葉で表現しています。

 

海を「円盤」とはるか上空から俯瞰した表現は、独特な視点の大きな世界感であるといえます。

 

「秋の航一大紺円盤の中」の鑑賞

 

【秋の航一大紺円盤の中】は、秋晴れの船旅の途中、目の前に島一つ見えない海原に水平線だけが見える様子を上手く表現しています。

 

水平性が心なしか円を描いているように見え、海を大きな紺青の円盤と表現しています。

 

耳を澄ますとエンジンの音が静かに聞こえ、船が海原に向かってぐんぐんと走っていく様子が浮かんできます。

 

草田男の作品は必ず「客観写生」により、対象物が具象化され、イメージが思い浮かぶ作風が特徴となっています。

 

この句は、私たち読み手も一緒に360度の大海原をゆったりと眺めている気分にさせてくれます。

 

作者「中村草田男」の生涯を簡単にご紹介!

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中村草田男(1901年~1983年)は、清国領事中村修の長男として清国(現中国)福建省廈門に生まれました。

 

本名を清一郎(せいいちろう)といい、3歳の頃に母とともに本籍地であった愛媛県伊予郡松前町に帰国しました。その後1908年、一家で東京に移り住みます。

 

早くから文学に目覚めた草田男は、20代後半になって本格的に句作をはじめます。28歳の頃に高浜虚子と出会い、虚子を信じて、全身で俳句に挑むようになります。

 

草田男は俳句雑誌『ホトトギス』で客観写生を学びつつ、ニーチェ、チェーホフ、ドストエフスキー等の作家たちに興味を持ち、その強烈な思想と独特な感性に影響を受けます。

 

その後、草田男は生活や人間性に根ざした句を模索し、石田波郷や加藤楸邨らとともに「人間探求派」と呼ばれるようになりました。

 

草田男は1946年に俳句雑誌『萬緑』を創刊し、1983年に亡くなるまで主宰をつとめました。没後の1984年、その業績を称え「日本芸術院恩賜賞」が贈られました。

 

 

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