【鰯雲人に告ぐべきことならず】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

俳句は、五・七・五の十七音で構成され、世界一短い定型詩といわれます。

 

日本の美しい風景と共に、作者の心の模様情を豊かに表現できる日本独自の方法が俳句なのです。

 

今回は加藤楸邨の有名な句の一つである、「鰯雲人に告ぐべきことならず」をご紹介します。

 


 

本記事では、「鰯雲人に告ぐべきことならず」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「鰯雲人に告ぐべきことならず」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

鰯雲 人に告ぐべきことならず

(読み方:いわしぐも ひとにつぐべきことならず)

 

この句の作者は、「加藤楸邨(かとうしゅうそん)」です。

 

加藤楸邨は、明治から平成にかけて生きた俳人・国文学者でもあります。楸邨の句風は、人間探求派と呼ばれています。

 

季語

この句の季語は「鰯雲(いわしぐも)」で、季節は「秋」です。

 

「鰯雲」は、秋空に現れるまだらな雲が連なった巻積雲のことです。雲の形が鰯の群れている様子に似ていることから、「鰯雲」と呼ばれます。

 

魚の鱗にも似ているため、「鱗雲(うろこぐも)」ともいいます。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「鰯雲が空一面に広がっている。今の気持ちを人に伝えようか、いや伝えることはできない。」

 

秋空を見上げたときに見た一面の鰯雲の美しさ…。鰯雲と対して、自分の気持ちは誰かに伝えてもどうにもならない。

 

空にのびる雲と、殻のように固く閉じこもった楸邨の気持ちの対比があらわされています。

 

この句が詠まれた背景

この句は、加藤楸邨の句集『寒雷』に収められています。

 

昭和13年、楸邨が勤めていた粕壁(かすかべ)中学の教師を辞め、妻や子供達と共に上京し、東京文理科大学国文科に通うようになった、33歳頃の句です。

 

職を離れたことで安定した収入が無くなった中、妻や子供3人そして遠く離れて住む妹や弟に仕送りをしなければならなかった楸邨。

 

そういった背景を考えると、この句に込められた楸邨の強い思いが感じられてきます。

 

「鰯雲人に告ぐべきことならず」の表現技法

初句切れ

俳句の切れとは、文章でいうと「。」がつけられる部分のことです。切れを作ることで、俳句には余韻が生まれます。

 

切れは、「や」「かな」「けり」などの切れ字と呼ばれるものや名詞を使っていることが多く、この句では名詞「鰯雲」で切れています。

 

この句は五・七・五の部分で初めの句で切れていることから、初句切れの句といえます。

 

句またがり

この句は「句またがり」の手法も使われています。

 

五七五で区切ると「いわしぐも ひとにつぐべき ことならず」ですが、意味で切ると「いわしぐも ひとにつぐべきことならず」と読みます。

 

中七「ひとにつぐべき」と下五「ことならず」の部分がつながっているのです。

 

これを「句またがり」といいます。句またがりは、破調と呼ばれる俳句の技法です。通常の五七五のリズムではなく、一つの語が句の切れ目をまたいで使われます。

 

「ひとにつぐべきことならず」と句またがりの手法を使うことで、読み手に作者の硬い気持ちを伝えているのです。

 

取り合わせ

俳句では句法取り合わせで、全く別のものをぶつける「二物衝撃」がありますが、この句でもその手法が使われています。

 

「鰯雲」は淡く空一面に広がる雲。それに対して「人に告ぐべきことならず」という、空とは全く異なる楸邨の悩みの二物を取り合わせているのです。

 

「鰯雲人に告ぐべきことならず」の鑑賞文

 

この句は、解釈が難解であるとされています。

 

風景としては「鰯雲」、そして「人に告げることならず」と言い切るのみで終わっていますそのため、作者がどういった感情を持っているかの理解が難しいのです。

 

主としては、2通りの解釈があります。

 

(1)鰯雲は美しい。私が今悩んでいることは誰にも相談することができない。誰にも言わず、黙っていることにしよう。

この解釈は、当時軍国主義であった日本で、言論の自由を人々が奪われていることを表現しているととらえています。

(2)鰯雲が美しいと私が言っても、誰もわかってくれはしない。

この解釈では、国家と国民との関係ではなく、楸邨自身の内面を表現しているとしています。当時、楸邨が職を離れ、妻子を連れて勉学のために上京したことを考えるとこの解釈とも考えられるのです。

 

この句は、読み手に様々な感情を揺さぶらせる句といえるでしょう。

 

作者「加藤楸邨」の生涯を簡単にご紹介!


加藤楸邨は、明治38年(1905年)東京に加藤家の長男として生まれました。本名を加藤健雄(かとう たけお)といいます。

 

鉄道官吏であった父の転勤と共に、楸邨は小学校時代関東、東海、東北、北陸と日本各地を転々とします。

 

楸邨が中学生時代、父の退職に伴い、家族で母の故郷石川県金沢市に住むこととなりました。この頃から、楸邨は短歌を作り始めます。

 

中学校を卒業後、父が病気のため生活が厳しくなったため楸邨は進学をあきらめ、石川県の小学校代理教員として勤めることになりました。

 

父が病死後、楸邨は東京講師第一臨時教員養成所国語漢文学に入学し、卒業と同時に矢野チヨ(俳人 加藤知世子)と結婚。

 

埼玉県立粕壁中学校(現:埼玉県立春日部高等学校)の教員となり、1931年に中学校の同僚から誘われて俳句を始めるようになりました。

 

水原秋櫻子に師事し、投句を始め1933年「第2回馬酔木賞」を受賞。

 

1937年 教員を辞め、妻と3人の子供を連れて上京し、東京文理科大学(筑波大学)国文科に入学。卒業後は、青山学院女子短大教授を勤めました。

 

俳句の句風としては、中村草田男、石田波郷とともに「難解派」「人間探求派」と呼ばれ、人間的で面白みがある作品を多く作りました。

 

松尾芭蕉の表現研究者としても名を残しています。

 

明治、大正、昭和、平成を生き、1993年(平成5年)に亡くなりました。

 

句集:『寒雷』『颱風眼(たいふうがん)』『穂高』『雪後の天』『野哭』『まぼろしの鹿』など

 

加藤楸邨のそのほかの俳句