五・七・五の十七音で、作者が見た景色や感じた気持ちを綴り詠む「俳句」。
最近ではテレビ番組でも俳句のコーナーがあったりするので、身近に感じられている方も多いのではないでしょうか。
今回は、与謝蕪村の有名な句の一つ「山は暮れて野は黄昏の芒かな」という句をご紹介します。
🍂晩秋の午後…奈良は明日香の石舞台近くの🌾ススキです
お月見に合うススキですが…
初冬の風に吹かれて銀色のススキの穂がサラサラとたなびく光景はとても美しく壮観です〜与謝野蕪村の俳句に
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本記事では、「山は暮れて野は黄昏の芒かな」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「山は暮れて野は黄昏の芒かな」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
山は暮れて 野は黄昏の 芒かな
(読み方 :やまはくれて のはたそがれの すすきかな)
この句の作者は、「与謝蕪村(よさぶそん)」です。
江戸時代中期の俳人で、松尾芭蕉や小林一茶とともに、有名な江戸時代の俳諧師です。日本文人画の確立者で、絵画的な印象の俳句を詠みました。
季語
この句の季語は「芒」、季節は「秋」です。
「芒」は「薄」とも書き、野・山・道端などに生えていています。高さは1〜2メートルあり、穂先が白くてふさふさしています。昔から人々の暮らしと関わりの深い植物です。
「芒」は「尾花(おばな)」ともいい、秋の七草の一つで、お月見には「萩(はぎ)」と共に、お団子などと一緒に供えられます。また、昔は茅葺き屋根(かやぶきやね)の資材としても用いられていました。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「遠くの山はすっかり暮れてしまったが、近くの野にはまだ黄昏(たそがれ)の光が残り、すすきの穂がほの白く見えることだ。」
という意味です。
作者は俳人でもありますが、画家でもありました。画家ならではの視点で、広々とした秋の夕暮れを詠んでいます。
「遠くの山はもう日が暮れているが、自分に近い野は、まだ黄昏の淡い光が残っている」と、この俳句を聞くだけで、パッと頭の中にこの秋の情景がイメージできます。
芒の穂の白さが黄昏の夕暮れに染まる、幻想的な風景をこの句に詠んだのでしょう。
この句が詠まれた背景
この句は、『蕪村句集』に収められています。
いつ頃詠まれた句なのかは、無記載のためわかりません。
与謝蕪村は42歳頃からは画業に専念し、本格的に俳諧に打ちこみ出したのが、55歳頃からと言われています。ですので、55歳頃から亡くなる68歳頃までに詠まれたものだと考えられます。
「山は暮れて野は黄昏の芒かな」の表現技法
「山は暮れて」の初句の字余り
俳句の魅力の一つは、五・七・五のリズム感にあります。
字余りとは、通常五・七・五のリズムで表現するところを、あえて六音や八音で表現することです。
この句では、初句の「山は暮れて」が五音ではなく、六音になっています。
字余りにし、定型の俳句のリズムを崩すことで、俳句に違和感を感じさせ、その語にインパクトを与えています。
「山は暮れて」と「野は黄昏の」対句仕立て
対句とは、対応する言葉を同じ組み立てで並べているものを指します。
この句では、「山は暮れて」と「野は黄昏の」が対句です。
俳句を対句仕立てにすることで、俳句にリズム感が出ます。さらに、そのリズム感がインパクトを与え、言葉を強調することができます。
前述の初句の字余りの効果と合わせて「遠くの山は暮れているが、近くの野山はまだ黄昏の淡い光が残っている」と、この風景を強調し、状況を明確に伝えています。
「芒かな」の切れ字
切れ字は主に「や」「かな」「けり」などがあり、句の切れ目を強調するときや、作者が感動を表すときに使います。
この句は「芒かな」の「かな」が切れ字にあたります。
俳句の切れは、通常の文章だと句読点で句切りのつく部分のことです。
「かな」で句の切れ目を表すことで、しみじみと黄昏に揺れる芒を眺めている様子を表しています。
また、五・七・五の五の句、結句に切れ目があることから、「句切れなし」となります。
「山は暮れて野は黄昏の芒かな」の鑑賞文
この句は晩秋の何気ないひと時、どこか懐かしい秋の夕暮れを詠んだ句です。
遠くの山が暮れて、近くの山裾の野にだんだん夕暮れが迫り、黄昏に光る芒が幻想的です。
画家としても活躍した蕪村は遠近法を対句にし、秋の夕景が目に浮かぶような美しい俳句に表現しました。蕪村はまるで絵を描くように、目に写る秋の夕暮れを詠んだのではないでしょうか。
広々とした秋の夕景が感じられ、自然の美しさを改めて実感できる俳句です。
作者「与謝蕪村」の生涯を簡単にご紹介!
(与謝蕪村 出典:Wikipedia)
与謝蕪村は、本名を谷口(または「谷」)信章(のぶあき)といい、享保元年(1716年)摂津国東成郡毛馬村、現在の大阪市都島区毛馬町に生まれました。
1735年、20歳頃に江戸に移り、 22歳の時に早野巴人(はやのはじん)【夜半亭宋阿(やはんていそうあ)】に師事しました。
蕪村が27歳の時に、師事していた巴人が亡くなり、以後10年は放浪生活を送りました。放浪生活中は敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活を真似、絵を宿代の替わりに置き、東北を周遊しました。
その後、29歳の時に初めて「蕪村」と名乗ったと言われています。そして36歳頃に、京に上り、42歳頃には京都で画業に専念しました。
55歳の時に夜半亭二世を継ぎ、本格的に俳諧に打ち込み始めました。蕪村の俳風は、古典や歴史に素材や構想を求めました。また、画家でもあるので、客観的で絵画的な印象の句をたくさん詠みました。
その後、俳人蕪村の存在は忘れ去られていましたが、死後百十数年後に、正岡子規が「俳人蕪村」の連載し、高く評価したことから、再び注目されるようになりました。
さらに数十年後、詩人の萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)が『郷愁の詩人与謝蕪村』を発表し、高く評価しました。
与謝蕪村のそのほかの俳句
(与謝蕪村の生誕地・句碑 出典:Wikipedia)
- 夕立や草葉をつかむむら雀
- 寒月や門なき寺の天高し
- 菜の花や月は東に日は西に
- 春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな
- 夏河を越すうれしさよ手に草履
- 斧入れて香におどろくや冬立木
- 五月雨や大河を前に家二軒
- うつくしや野分のあとのとうがらし
- ゆく春やおもたき琵琶の抱心
- 花いばら故郷の路に似たるかな
- 笛の音に波もよりくる須磨の秋
- 涼しさや鐘をはなるゝかねの声
- 稲妻や波もてゆへる秋津しま
- 不二ひとつうづみのこして若葉かな
- 御火焚や霜うつくしき京の町
- 古庭に茶筌花さく椿かな
- ちりて後おもかげにたつぼたん哉
- あま酒の地獄もちかし箱根山