【田一枚植えて立ち去る柳かな】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

江戸時代の有名な文学者と言えば真っ先に名前が挙がるのが松尾芭蕉。

 

その松尾芭蕉のもっとも有名な書と言えば、「おくのほそ道」ではないでしょうか?

 

「おくのほそ道」は、芭蕉が弟子の曾良と江戸を出て東北・北陸を回り、岐阜の大垣までを旅した時の記録と句を書き留めたものです。

 

今回はこの「おくのほそ道」で詠まれた一句、田一枚植えて立ち去る柳かな」を紹介していきます。

 


 

本記事では、田一枚植えて立ち去る柳かな」の季語や意味・表現技法・作者について徹底解説していきます。

 

俳句仙人

ぜひ参考にしてみてください。

 

「田一枚植えて立ち去る柳かな」の季語や意味・詠まれた背景

 

田一枚 植えて立ち去る 柳かな

(読み方:たいちまい うえてたちさる やなぎかな)

 

こちらの句の作者は、「松尾芭蕉」です。

 

芭蕉は栃木県那須町芦野宿の遊行柳(ゆぎょうやなぎ)を見てこの句を詠んだと言われています。

 

 

季語

この句の季語は「田植え」、季節は「夏」です。

 

田植えとは、水田に稲の苗を植えることで夏のはじめに行う農作業です。この句では「田一枚植えて」と言葉を足して詠んでいます。

 

意味

この句をどういう意味でとらえるかについては、諸説あります。

 

田を植えたのがだれなのか、立ち去ったのがだれなのか、句の中では明確に言及されていないため、様々な解釈が成り立つのです。

 

  • 「農民たちが田を一枚植えて、立ち去って行き、あとに残されたのは柳のみである。」と解釈する説
  • 「農民たちが田を一枚植える間、私は柳に見とれていたが、田植えも終わって農民たちが去り、私も立ち去ることとするので、残るのは柳のみである。」と解釈する説
  • 「私は田を一枚植えて立ち去るが、あとには柳が残される」と解釈する説

     

    など、上記のように様々です。

     

    芭蕉の俳句では、「て」の前後で主語が替わるものが多いとの研究もあるため、早乙女や農民たちが植えたのを作者が見ていた、とする説が優勢です。

     

    この句が詠まれた背景

    この句は、「おくのほそ道」にのっている一句です。

     

    (※「おくのほそ道」は、元禄2(1689)、松尾芭蕉とその門人の河合曾良(かわいそら)が江戸を出発し、東北・北陸を巡り、岐阜の大垣までの旅行をまとめた紀行文のこと)

     

    この句が詠まれたのは、下野国(しもつけのくに 現在の栃木県)那須郡の「芦野」です。

     

    ここには、かつての伝説的歌人・西行法師が立ち寄ったとされる有名な柳の木がありました。

     

    「おくのほそ道」には、【芦野の領主が柳の木をみせたいと常々芭蕉に言っていたので、いったいどのような柳なのかと思いながら、念願かなって柳に立ち寄った】と書かれています。

     

    【注意】

    芭蕉に現地を案内したのは領主である芦野民部資俊ではなく、芦野宿仲町の外れにあった「角の茶屋」の松本市兵衛です。

    芦野資俊は、松尾芭蕉の弟子の1人で「桃酔」という俳号を持っていました。江戸にいる間に自分の領地に西行が詠んだ柳がある、と話をしていたのでしょう。

    資俊本人は江戸から離れられないため、地元の人間に案内させています。『おくのほそ道』で「郡守戸部某」と描写したのは、幕臣である資俊の名前をぼかすためです。

     

    また、鎌倉時代の勅撰和歌集「新古今和歌集」には、以下の記述があります。

     

    道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ち止まりつれ

    (意味:道のほとりに、清水が流れ、柳が涼しい木陰を作っていることよ。しばし一休み、と思って立ち止まったのに、あまりの心地よさに長居をしてしまったことだ。)

     

    これが、西行法師が柳を見て詠んだとされる歌です。

     

    松尾芭蕉にとって、西行法師は旅に生き、歌を詠んだあこがれの人物でもありました。

    (※ちなみに「おくのほそ道」の旅は、西行法師の500回忌にあたる年の旅でもありました)

     

    松尾芭蕉は、西行法師の和歌・謡曲「遊行柳」の情趣も取り入れながら、この句とそこにまつわる紀行文を「おくのほそ道」にまとめあげたのです。

     

    「田一枚植えて立ち去る柳かな」の表現技法

    切れ字「かな」

    切れ字とは、「かな」「や」「けり」などの感動、詠嘆を表す言葉です。

    (※「…だなあ」というくらい意味)

     

    切れ字のあるところにその句の感動の中心があるといえます。

     

    今回の句では「柳かな」の「かな」が切れ字に該当します。芭蕉は柳の木を見た感動がこの句を詠むきっかけになったとわかります。

     

    初句切れ

    句切れとは、意味やリズムの切れ目のことです。

     

    句切れは「や」「かな」「けり」などの切れ字や言い切りの表現が含まれる句で、どこになるかが決まります。

     

    この句の場合、初句(五・七・五の最初の五)に、「田一枚」の名詞で区切ることができるため、初句切れの句となります。

     

    「田一枚植えて立ち去る柳かな」の鑑賞文

     

    【田一枚植えて立ち去る柳かな】は、先ほど述べた通り、古くから解釈が分かれている句です。

     

    しかし、西行法師の和歌に「しばしとてこそ立ち止まりつれ」(しばし一休み、と思って立ち止まったのに、あまりの心地よさに長居をしてしまったことだ。)とあることから、芭蕉も西行法師にならい、柳の陰で一休みをしたのでしょう。

     

    そう考えると、田を植えたのは芭蕉ではなく、その地の農民たちです。

     

    西行法師の和歌からはどのくらい長居したものか明確ではありませんが、芭蕉は農民たちが田んぼ一つ分の田植えを済ませてしまうまで柳に見とれ、西行法師のことに思いをはせていたと言うことを言いたいのだと考えられます。

     

    そのように考えると「農民たちが田を一枚植える間、私は柳に見とれていたが、田植えも終わって農民たちが去り、私も立ち去ることとするので、残るのは柳のみである。」という解釈が自然に思われます。

     

    柳に見とれる芭蕉の脳裏に浮かぶのは、500年も前の伝説的歌人西行。

     

    しかし、現実に目の前で繰り広げられるのは毎年変わらない「人々の営み」。過去の伝説の存在と現在の生活者を対比させ、その真ん中に作者がいます。

     

    作者は、古の詩歌のみやびにも心をひかれつつ、それとは無関係に立ち働く農民の姿の両方をおもしろがる視点を持ち合わせているのです。

     

    【補足情報】遊行柳について

    遊行柳とは

    遊行柳は栃木県那須町芦野に所在していて、芦野の町並みや芦野氏陣屋跡が見える水田の中にあります。

     

    芦野温泉神社参道の鳥居前に植えられており、代々地元の人々の手によって植え替えられてきました。

     

    この柳には、15世紀の時宗の僧侶である遊行上人が柳の精と会話をかわしたという伝説があります。その伝説が元となって能「遊行柳」が作られました。

     

    能としての「遊行柳」と「西行桜」

    「遊行柳」は、16世紀頃に観世光信が上記の伝説を元に作成した謡曲です。

     

    遊行上人と古老に扮した柳の精が出会い、西行法師が詠んだ柳へと上人を案内します。

     

    遊行上人はその古老が柳の精だったと土地の人間から聞き、不思議なこともあったものだとその柳に向かい念仏するのです。上人とお供が借寝していたところ、夢に柳の精としての老人が現れます。遊行上人によって供養されたことで極楽へ行ける喜びを伝え、西行法師の和歌の由来や中国の故事を語ります。その後に舞を踊ると、極楽のある西方から風が吹き、柳の葉が散り後には朽木の柳だけが残されるのでした。

     

    この「遊行柳」は、15世紀に世阿弥によって作られた「西行桜」とよく似たストーリーとなっています。

     

    「西行桜」では柳ではなく桜の精が現れ、西行法師と語り合って桜の名所などを語り合います。語り終えた桜の精が舞を踊り終わると、桜の花びらが散り桜の精も姿を消すのです。

     

    両者は仏教説話の側面の有無の違いはありますが、木の精が老人になって夢に現れ、問答をして礼として舞を踊り、葉や花が散って別れになるという共通点があります。

     

    「遊行柳」を作った観世光信は、伝説としての遊行柳と西行の間に関わりがある事を知り、参考にして謡曲を作ったのでしょう。

     

    作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!

    (松尾芭像 出典:Wikipedia)

     

    松尾芭蕉、本名・松尾宗房(まつお むねふさ)は、江戸時代前期の俳諧師です。

     

    誕生は寛永21年(1644年)で、出身地は伊賀国、現在の三重県伊賀市です。

     

    平氏の流れをくむ農民のことも言われますが、裕福な家庭ではありませんでした。伊賀国上野の武士藤堂良忠に仕え、主君の良忠とともに、京都の国学者北村季吟に師事し、俳諧を詠むようになります。

     

    良忠が若くして亡くなったしばらくしてから、芭蕉は江戸に下り、様々な文化人と交流しながら俳諧を詠み続けました。

     

    40歳ごろから、旅に出て紀行文とともに句をまとめるようになります。

     

    江戸から伊賀への旅の紀行文「のざらし紀行」、江戸から伊賀を経由してさらに西の須磨や明石までの旅についての紀行文「笈の小文」など、旅の記録と句を合わせて記しました。

     

    そして、その最高峰ともいえる紀行文が、江戸を出て東北、北陸をまわって岐阜にいたる旅をまとめた「おくのほそ道」です。

     

    「おくのほそ道」の旅が元禄2年(1689年)、その五年後、元禄7年(1694年)に芭蕉は亡くなります。50歳でした。

     

    松尾芭蕉のそのほかの俳句

    (「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia