五・七・五のわずか十七音に心情や風景を詠みこむ「俳句」。
十七音から詠み手の感じたこと、想ったことを想像し味わうことができるのも俳句の楽しさのひとつです。
今回は、与謝蕪村の「五月雨や大河を前に家二軒」という句を紹介していきます。
五月雨や
大河を前に
家二軒 与謝蕪村
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— 桃花 笑子 (@nanohanasakiko) June 21, 2015
本記事では、「五月雨や大河を前に家二軒」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきます。
ぜひ参考にしてみてください。
目次
「五月雨や大河を前に家二軒」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
五月雨や大河を前に家二軒
(読み方 : さみだれや たいがをまえに いえにけん)
この句の作者は、「与謝蕪村(よさぶそん)」です。
与謝蕪村は江戸時代中期に俳人や画家として活躍しました。松尾芭蕉や小林一茶などと並び称される江戸俳諧の巨匠の一人です。
季語
この句の季語は「五月雨(さみだれ)」、季節は「夏」です。
五月雨とは、陰暦の5月(現在の6月)に降る長雨のことです。
梅雨(つゆ、ばいう)ともいわれますが、五月雨は雨の種類をあらわす言葉、梅雨は雨が降り続く期間をさす言葉として分けられています。読み方は「さつきあめ」ともいいます。
この五月雨から派生した、五月雨式(さみだれしき)という言葉もあります。
これは、雨が降り続いて止まない様子から、物事が一度では終わらずに何度も行われる、断続的であるという意味です。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「五月雨が何日も降り続いて、勢いを増した大きな川が激しく流れている。その川のほとりに家が二軒、寄り添ってぽつりと建っている。」
という意味になります。
大河は、幅が広く水量も豊かな大きな河という意味です。
この句が詠まれた背景
この句は与謝蕪村が62歳の頃に詠んだと言われています。
もともと絵をかいて生計をたてていた蕪村でしたが、55歳以降は画家としてだけでなく、俳人としても有名になっていました。
また、晩年は松尾芭蕉へのあこがれが強く、松尾芭蕉を祖とした蕉風の流派を復活させようと取り組んでいました。
この句は、天明4年(1785年)に刊行された「蕪村句集」に収められています。
「蕪村句集」というのは、天明3年(1784年)に亡くなった蕪村の一周忌の時に、弟子の高井几菫(たかいきとう)が、蕪村の句をまとめた句集です。
【補足情報】蕪村の俳諧観
この句は、安永6年の5月24日に俳諧仲間である正明・春作宛に出された書簡に書かれていたものです。
蕪村はこの句を引き合いに出し、「当時流行の調にては無之候。流行のぬめりもいとハしく候」と述べています。
現代語に訳すと「最近流行っているものではない。流行の上滑りが嘆かわしい」という意味です。
「流行のぬめり」とは、歌枕に対して単純に単語だけを連想したり、「川といえば流れる」のように簡単な句に落とし込んでしまったりしている状態を示唆しています。
蕪村はこれらの「ぬめり」を、実情を知らずに上辺だけで書いていると批判しており、弟子の几董は「皮肉を察して、其粉骨をしらざる」と評しています。
このような批判が出てきた背景として、当時は松尾芭蕉の残した蕉風の復活の機運が高まっていました。芭蕉が実際に各地を旅して、体感した事柄を句に詠んだのに対し、蕪村の時代では実際に見ることなく連想しただけで終わっている俳句が多く出ています。
蕪村はこれらの俳句に対して、季語や季題、歌枕を実感して詠むことが大切だと述べているのです。
この句では、五月雨で増水する大河への隠しきれない不安感を詠んでいます。ただ流れているものとだけ詠むのではなく、それぞれの言葉に対して読者がどう感じるかが大切だと述べているのです。
「五月雨や大河を前に家二軒」の表現技法
「五月雨や」の切れ字(初句切れ)
切れ字は「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときに使います。
この句は「五月雨や」の「や」が切れ字にあたります。
「や」は上の句(五・七・五の最初の5文字)で使われ、詠嘆の表現や、呼びかけに使われる言葉です。
「しとしとと降り止まない五月雨だなぁ」と思いをめぐらせている、蕪村の様子が目に浮かぶようです。
また、切れ字のあるところで句が切れることを句切れといいます。この句は初句に「や」がついており、「初句切れ」の句です。
「家二軒」の体言止め
体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める表現技法です。
体言止めには、美しさや感動を強調する・読んだ人を引き付ける効果があります。
「家二軒」で体言止めをすることで、大河の前にぽつんと家が建っている心細い印象を、この句を読んだ人に想像させることができます。
大河と家二軒の対比
対比とは、2つ以上のものを並べあわせて、その特徴や相違点を強調する表現技法です。
ここでは、大河と家(二軒)が対比されています。
大河は、文字どおり大きい河。一方、家は大河の前では小さいちっぽけな存在です。
この句での対比は大きさだけではなく、動と静の対比でもあります。
大きくうねり動く河と動かず小さな家を対比することで、いっそうこの俳句の絵画的な世界観を強調しています。
「家二軒」という表現
「家二軒」という表現は、蕪村よりも先に弟子の几董が詠んでいます。
「燕や 流のこりし 家二軒」というもので、蕪村とは違い燕を題材に詠んでいるのが特徴です。
几董の句では燕が巣を作った家が二軒あるという意味になりますが、蕪村の句では大河と対比させるダイナミックな点が違っています。
蕪村と娘の「くの」
この「家二軒」という表現は、【実際に水量が増えた大きな川の傍の家を詠んだという説】と【蕪村の人間関係を示したものという説】の2つが存在します。
後者では、蕪村の一人娘である「くの」について詠んだとされています。
くのは蕪村が40を過ぎた頃に生まれた娘で、とても可愛がられていました。この句が詠まれた前年に嫁ぎましたが、諸事情により翌年に離婚してしまっています。
離婚が5月であり、この句が詠まれたのが5月24日のため、「大河」はどうしようもない人間関係を、「家二軒」は寄り添って不安に思う蕪村とくのの親子を指しているという説が有力です。
「五月雨や大河を前に家二軒」の鑑賞文
降り止まない五月雨に、ごうごうとうねる大河、そして家二軒がぽつりと建っている様子に、「雨はいつ止むのだろう、家はどうなるのだろう」という不安な印象さえ持ってしまいます。
また、自然の前に人間がなすすべなくたたずんでいるような様子さえ想像することができます。
画家でもある蕪村は、このような絵画的な印象を読み手に与える句が多いように感じます。
五月雨の季語を詠む俳人は多いですが、この季語を使った一番有名な句は、なんといっても松尾芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」(五月雨が最上川へと流れ込んで水かさが増している、危険なほどに流れがはやくなっていることだ。)ではないでしょうか。
「おくのほそ道」の句として国語の教科書のも載っている有名句です。
この松尾芭蕉の五月雨の句と、蕪村の句を比較したのが、明治を代表する俳人の正岡子規です。
新聞「日本」の文芸欄で、この句を比較し蕪村の方が優れていると述べています。
蕪村に比べて、松尾芭蕉の知名度は圧倒的に高かったですが、この批評により、蕪村への評価が高まることになりました。
松尾芭蕉が、五月雨の降る最上川を詠んだことに対し、蕪村が五月雨の降る大河と詠んだことも、なにか蕪村自身の松尾芭蕉への強いあこがれが込められているようです。
作者「与謝蕪村」の生涯を簡単にご紹介!
(与謝蕪村 出典:Wikipedia)
与謝蕪村は、享保元年(1716年)摂津国、現在の大阪府大阪市に生まれました。
本名を谷口信章といい、与謝の姓は結婚してから、蕪村という雅号は40歳近くなってから名乗ったものとなります。
俳句を賛した簡単な絵を添える俳画を、芸術の様式として完成させました。
与謝蕪村は、俳諧の祖と言われる松永貞徳や、江戸前期に活躍し俳諧の芸術性を高めていった松尾芭蕉に強いあこがれと尊敬の念を持っていました。のちに蕪村は芭蕉の足跡である「おくのほそ道」を実際にたどるため東北地方や関東地方を周遊しています。
丹後地方や讃岐に住み、晩年は京都にて過ごしました。そして天明3年(1784年)、68歳で永眠しました。
与謝蕪村のそのほかの俳句
(与謝蕪村の生誕地・句碑 出典:Wikipedia)
- 夕立や草葉をつかむむら雀
- 寒月や門なき寺の天高し
- 菜の花や月は東に日は西に
- 春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな
- 夏河を越すうれしさよ手に草履
- 斧入れて香におどろくや冬立木
- ゆく春やおもたき琵琶の抱心
- 花いばら故郷の路に似たるかな
- 笛の音に波もよりくる須磨の秋
- 涼しさや鐘をはなるゝかねの声
- 稲妻や波もてゆへる秋津しま
- 不二ひとつうづみのこして若葉かな
- 御火焚や霜うつくしき京の町
- 古庭に茶筌花さく椿かな
- ちりて後おもかげにたつぼたん哉
- あま酒の地獄もちかし箱根山