俳句とは、本来は春夏秋冬の季節について詠むものであるため、先人達が残した作品のなかには農作業に関する句も数多く存在します。
今回は、農作業の一コマを題材にしている句「折々は腰たたきつつつむ茶かな」をご紹介します。
本記事では、「折々は腰たたきつつつむ茶かな」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてください。
目次
「折々は腰たたきつつつむ茶かな」の俳句の季語・意味・詠まれた背景
折々は腰たたきつつつむ茶かな
(読み方:おりおりは こしたたきつつ つむちゃかな)
この俳句の作者は「小林 一茶(こばやし いっさ)」です。
小林一茶は、松尾芭蕉や与謝蕪村とともに江戸時代を代表する俳人のひとりです。一茶の作品は表現が簡潔なので誰にも意味が分かりやすく、生涯に2万作もの俳句を詠んだといわれています。
この句は「茶摘み」を題材にしており、表現そのものは非常にシンプルですが、農作業に励む人たちの様子が伝わってくる、一茶らしい温かみのある作品です。
季語
この句では、季語「茶摘み」を変形させた「つむ茶」が使われており、季節は「春」になります。
茶つみは立春から数えて88日目に当たる「八十八夜」にお茶の若葉を摘む作業のことです。
ちなみに、茶を含む季語として茶畑、新茶、茶つみ歌などもありますが、これらのいずれも季節は「春」を示します。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「ときどき腰をたたきながら茶摘みをしているよ。」
という意味です。
折々は、時々という意味です。中腰になってお茶の新芽をつんでいる人たちが、ときどき作業を中断して、腰を労わっている情景を詠んだ作品です。
この句が詠まれた時代背景
この句は「一茶全集第一巻発句」に収録されていますが、いつ詠まれた作品であるか正確な年月日については不明です。
しかし、一茶の当時の生活を振り返ることで、おおよそではありますが、この句がいつ頃句作された作品であるかを推測できます。
江戸時代を生きた俳人達には、諸国を旅して俳句の修行をする習わしがあったと言われています。一茶も例外ではなく、しきたりに従って東北や西国などを巡る旅に出て、訪ねた旅先や旅の途中で、数多くの作品を詠んでいます。
この句についても、一茶が旅先で目にした茶つみの風景を句に詠んだものではと推察することができます。
折々は腰たたきつつつむ茶かな」の表現技法
切れ字 「かな」
この句では下句「つつむ茶かな」の文末が切れ字「かな」で結ばれています。
切れ字「かな」は、余韻や感動を残して文末を結びたい時に使われる技法です。
人々がひとつずつ手作業でお茶の若葉を摘んでいる情景に対して、一茶が「茶つみとは大変なものであるなぁ〜」と感心している様子がわかります。
また、文末が「かな」で結ばれているため、この句には句切れがありません(=句切れなし)。句の途中で句切れを設けずに、読み手に文末まで詠ませることで、茶つみの情景を伝えています。
ちなみに、切れ字には「せ・れ・へ・け・し・に・かな・もがな・ぞ・か・や・よ・けり・ず・じ・ぬ・つ・らぬ」といった、18種類があります。
「折々は腰たたきつつつむ茶かな」の鑑賞文
今回の句を解釈するポイントは「つむ茶」です。
「つむ茶」が季語「茶つみ」を変形させた形であると気づかないと、この句を正確に理解することはできません。
一茶は俳諧行脚に出た旅先で、茶摘みをしている人達に出会います。お茶の木はそう大きなものではなく、腰を折って前傾姿勢で茶つみをするため、長時間にわたる作業は腰が疲れるのでしょう。
「疲れた腰を労わるかのようにして、時々トントンと筋肉が凝り固まってしまった腰を叩きながら茶摘みをしている。茶つみとは大変な作業だなぁ〜」と表現しています。
この句からは、うららかな春の光景が浮かびますし、新緑の香りまで読者に伝わってきます。一茶の作品は、この句のように日常生活のなに気ない情景を詠んだものが多く、俳句を勉強中のみなさんも親しみやすい内容です。
作者「小林一茶」の生涯を簡単にご紹介!
(小林一茶の肖像 出典:Wikipedia)
小林一茶は、1763年(宝暦13年)に長野県信濃町に誕生しました。本名は小林弥太郎と言い、「一茶」は俳号になります。
一茶の実家は部落のなかでも有数の農家であったため、経済的には恵まれていました。しかし、一茶はわずか3歳で実母を亡くし、さらに14歳の時に母親代わりとなって可愛がってくれた祖母を失いました。また、義母との折り合いも悪く、一茶は15歳で江戸に奉公に出されてしまいました。
江戸で奉公人として主家に使えていた一茶は、後の俳句の師匠となる二六庵竹阿に出会い、俳諧の道に進みます。
そして一茶は27歳の時に東北俳諧行脚へ、30歳で西国俳諧行脚の旅に出て、諸国を旅しながら俳句の腕を磨きます。西国俳諧行脚の際には、一茶は指導者として諸国で出会った人々に俳句を教えて報酬を稼ぎ、生計を立てていたそうです。
その修行の最中に師匠の死と辛い出来事はありましたが、一茶は悲しみを乗り越えて一人前の俳諧師として認められ、師匠の庵号である「二六庵」を名乗ることが許されました。
しかし、翌年に父を亡い、さらに人間関係のつまずきからせっかく得た庵号も失ってしまいます。そこで、一茶は俳句がブームとなっていた生まれ故郷信濃に戻り、「一茶社中」を築いて、俳句の指南をしながら生計を立て直しました。
義母との相続問題にもようやく決着がつき、51歳で結婚した相手との間にも子供も生まれて、幸せな人生が訪れた一茶。しかし、病気で妻子と死別し、さらに2度目の結婚は失敗に終わってしまいます。
3度目の結婚で、ようやく安泰した生活を手に入れた一茶ですが、柏原で発生した大火災によって家を失ってしまいました。
このようにプライベートでは波乱続きの一茶でしたが、俳人としては大きな功績を残しています。また、友人であった松尾芭蕉の句風「芭蕉俳諧」の確立に対しても、大きな影響を及ぼしました。一茶自身も「一茶調」という作風を確立し、社会的な弱者や日常の風景をテーマに2万作にも及ぶ俳句を後世に残しています。
小林一茶のそのほかの俳句
(一茶家の土蔵 出典:Wikipedia)