【おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

日本には著名な俳人に詠まれた、数多くの作品が残されています。

 

また、日本ならではの風物詩をテーマにした名句も多く存在します。

 

今回はそんな名句の中でも、「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」という松尾芭蕉の句を紹介していきます。

 

 

本記事では、「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」の季語や意味・表現技法・鑑賞文など徹底解説していきます。

 

俳句仙人

ぜひ参考にしてみてください。

 

「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」の季語や意味・詠まれた背景

(長良川鵜飼 出典:Wikipedia

 

おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな

(読み方 : おもしろうて やがてかなしき うぶねかな)

 

こちらの作品は、日本を代表する有名な俳人「松尾芭蕉(まつお ばしょう)」が詠んだ作品になります。

 

 

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それでは、早速こちらの俳句について詳しくご紹介していきます。

 

季語

こちらの俳句の季語は「鵜舟(うぶね)」で季節は「夏」を表します。

 

参考までに「鵜舟」とは、鵜を使い鮎を漁獲する鵜飼の際に使用する船のことです。

 

当時鵜飼は、漁獲するための1つの手段でした。現代では観光ショーの1つとして楽しまれています。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「鵜飼は風情がありおもしろいものだ。しかし時間が経つにつれて鵜舟というものは、悲しいものである。」

 

という意味になります。

 

鵜飼は、5月から10月の期間におこなわれる鵜という鳥を使って鮎を採る漁獲方法のこと。主に岐阜県長良瀬川地域を中心に現在でも行われています。

 

鵜飼は夜間にいざり火を焚きながら行われるため、とても幻想的で風情があります。

 

そのような情緒溢れるシーンを芭蕉が詠んだ作品です。

 

こちらの句は下記のように解釈できます。

 

「鵜飼はいざり火を焚き、とても風情があるものである。また、鵜たちが次々と鮎を捕る姿もおもしろいものだ。それだけに今までの楽しいひと時が終わってしまと、寂しい気持ちになってしまう。」

 

さらに見方を変えると・・・。

 

鵜が鮎を捕獲する様子は、大きな生き物が小さな魚を闇雲に飲み込んでいるに過ぎません。ただ黙々と鵜匠の指示に従い、殺生を繰り返す鵜たちの哀れな様子も盛り込まれています。

 

この句が詠まれた背景

こちらの俳句は、芭蕉が1686年に岐阜を訪れた際に、長良瀬川で行われた鵜飼を見学して詠んだ作品です。

 

鵜飼を題材にした数多くの作品の中で、最も秀作と言われています。

 

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現在でも長良瀬川の鵜飼遊覧船乗り場付近に、こちらの句が刻まれた句碑が残されています。

 

 

「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」の表現技法

(木曽街道六十九次 出典:Wikipedia)

 

こちらの俳句で使われている表現技法は・・・

 

  • 「おもしろうて」の部分の「字余り」
  • 「鵜舟かな」の部分の「切れ字」

 

になります。

 

「おもしろうて」の部分の「字余り」

俳句は「上句5・中句7・下句5」の17音が基本ですが、このルールから外れ、17文字以上で詠まれると「字余り」と言います。

 

こちらの句では上句の「おもしろうて」(6文字)が、字余りになります。

 

「字余り」にすることにより、俳句に独特のリズムが生まれ、インパクトの強い作品に仕上がります。

 

こちらの「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」のような情景を詠んだ作品では、俳人が感じた情景をイメージしやすくなります。

 

さらに、芭蕉の気持ちまで伝わりやすくなっています。

 

「鵜舟かな」の部分の「切れ字」(句切れなし)

切れ字とは、「感動が伝わりやすくなる」「共感を呼びやすい」「インパクトを与える」といった主に3つの効果がある表現技法のことです。

 

代表的な切れ字には「や」「かな」「けり」などがあげられます。

 

こちらの俳句では「鵜舟かな」の「かな」の部分が「切れ字」になります。

 

「鵜舟かな」とすることで、読者に鵜飼のシーンをよりイメージさせやすくし、また、芭蕉の気持ちを共感しやすい作品に仕上がっています。

 

また、切れ字が含まれるところや、句の意味や内容での切れ目(※句点「。」がつく場所)を「句切れ」といいます。今回の句については、下句に句切れついているため、「句切れなし」の句となります。

 

「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」の鑑賞文

 

【おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな】からは、真っ暗な長良瀬川の夏の夜に、いざり火を焚いている鵜舟が浮かんでいる様子が伝わってきます。

 

それはとても幻想的であり、夏を代表する華やかな風物詩です。

 

さらに鵜匠たちが、巧みに鵜を操り鮎を次々と釣り上げていく、素晴らしい技術まで連想できます。

 

一見すると、とても風情があり人の心を魅了する鵜飼ですが・・・・。

 

鵜飼が終わり鵜舟が去ってしまうと、辺りはシーンと静まり返り、寂しさだけが残されてしまいます。

 

また、鵜たちに次々と鮎を飲み込ませ殺生をさせる様子も、あさましく哀れな気持ちがこみ上げた芭蕉の気持ちが伝わってきます。

 

つまり、「悲しき」には鵜飼が終わり寂しい気持ちと命が失われていく命への悲しさが読み込まれているのです。

 

「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」の補足情報

なぜ鵜舟がモチーフなのか

この句は、能の謡曲「鵜飼」をモチーフに作られました。

 

「罪も報いも後の世も。忘れはてておもしろや。漲る水の淀ならば。生簀の鯉やのぼらん。玉島川にあらねども。小鮎さばしるせぜらぎに。かだみて魚はよもためじ。不思議やな篝火の。燃えても影の暗くなるは。思ひ出でたり。月になりぬる悲しさよ。鵜舟のかがり影消えて。闇路に帰る此身の。名残をしさを如何にせん。」

(訳:殺生の罪も報いも後の世のこともすっかり忘れ去って面白いものだ。ここが淀川ならば生簀の鯉が登ってくるだろう。鮎の名所として名高い玉島川ではないが、小さな鮎が泳ぐせせらぎでは鮎を取り逃がすことも無いだろう。ああ、不思議だ、篝火を焚いているのに影が暗くなってきた。月が出てきた悲しさよ。鵜舟の篝火は消え、この身は闇路に帰らなければならない。この名残惜しさはどうしようもない。)

 

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芭蕉の句は、この謡曲の最初と最後の部分を取っています。最初は「おもしろや」と魚をとっていましたが、月が昇り夜が来て鵜舟の篝火も消え、魚取りを終えなければならないと「悲しさよ」と唄っているのです。

 

楽しいことのあとの悲しさ

芭蕉はこの句で、「楽しかったことの後には悲しさが来る」と詠んでいますが、これは紀元前1世紀頃の漢の武帝が詠んだ「秋風辞」という漢詩にある普遍的な感情です。

 

芭蕉は漢詩や漢文にも詳しかったため、この漢詩のことも知っていたでしょう。

 

「秋風辞」とは・・・

 

「秋風起こって白雲飛ぶ

草木黃落して雁南に帰る

蘭に秀有り菊に芳しき有り

佳人を懐いて忘るる能わず

楼船を汎べて汾河を済り

中流に横たわりて素波を揚ぐ

簫鼓鳴りて棹歌発す

歓楽極まりて哀情多し

少壮幾時ぞ老いを奈何せん」

(訳秋風が吹き白い雲が飛んでいく。

草木は黄色くなって散り、雁は南に帰っていく。

蘭は美しい花を咲かせ、菊には芳香がある。

今まで出会った美しい人の面影は消えることがない。

屋形船を浮かべて汾河を渡る。

河を横切れば白波が立つ。

船の中では笛や太鼓の音、舟歌の声がする。

楽しみが極まれば哀しみが胸に迫る。

壮健な日々はあとどのくらいか、やがて来る老いをどうしたらよいのか。)

 

というもので、「歓楽極まりて哀情多し」という感情が「秋風辞」や「おもしろうて」の句の根底にあります。

 

なお、芭蕉は単にこういった楽しみの後の悲しみという普遍的な感情を詠むだけでなく、謡曲「鵜飼」を参照しているのがこの句の特徴です。

 

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具体的に鵜舟という殺生を遊びとして楽しむ行事を詠むことで、仏教的な観念も持ち合わせた一句になっています。

 

作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!

(松尾芭像 出典:Wikipedia)

 

松尾芭蕉は、1644年に三重県伊賀市(当時の伊賀国)で生まれました。芭蕉は俳号であり、本名は松尾宗房です。

 

芭蕉の生家は農民に過ぎず、さらに13歳の時に実父を亡くしてしまい、貧しかったようです。

 

芭蕉は18歳の時に藤原良忠に仕えます。この良忠は俳句がうまく、芭蕉が俳諧への道に進むきっかけとなった人物です。

 

2人は当時の俳句の先生北村季吟に弟子入りをします。ですが藤原良忠が芭蕉24歳の時に亡くなってしまいました。この出来事により、芭蕉は俳人として生涯を過ごそうと決意しました。

 

その後は努力の成果が報われ、京都や江戸で俳人として認められるようになりました。ですが芭蕉は俗世に嫌気が差し、旅をしながら俳句を詠む生活をはじめます。これが有名な「奥の細道」となります。

 

このように俳句の世界で生きた芭蕉は、50歳の時に赤痢または食中毒にてこの世を去りました。

 

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia