【子狐のかくれ貌なる野菊哉】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

五・七・五の十七音に季節や心情を詠む「俳句」。

 

テレビ番組でも人気があり、趣味として俳句を楽しんでいる方も多いのではないでしょうか。

 

今回は、有名句の一つ「子狐のかくれ貌なる野菊哉」をご紹介します。

 

 

本記事では、「子狐のかくれ貌なる野菊哉」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「子狐のかくれ貌なる野菊哉」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

子狐の かくれ貌なる 野菊哉

(読み方 :こぎつねの かくれがおなる のぎくかな)

 

この句の作者は、「与謝蕪村(よさぶそん)」です。

 

江戸時代中期に俳人や画家として活躍し、松尾芭蕉や小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人です。

 

 

季語

この句の季語は「野菊」、季節は「秋」です。

 

野菊とは、10~12月に山や野原に咲く、キクの花に似た植物のことです。

 

様々な色があり、白や黄色、うすい紫色などの小さな可憐な花を咲かせます。地域によっても様々な種類があり、約500種類あるともいわれています。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「可憐な野菊が群がって咲いている陰で、かわいらしい子狐がかくれんぼをしているようだ」

 

という意味です。

 

「貌」という字は「かお」と読みます。意味は、物のかたち・すがた、顔かたちです。「かくれ貌なる」を「かくれんぼをしているようだ」と訳しています。

 

この句が詠まれた背景

この句は「新五子稿」に蕪村の句として載っています。

 

正岡子規は著書「俳人蕪村」で、蕪村の句について解説しています。

 

簡単に訳すと・・・

 

「蕪村は、狐や狸の怪談を信じていたのだろうか、たとえ信じていなくてもこの種の怪談が好きだったのか。彼の自筆の草稿「新花摘」は怪談を載せている句が多いし、かつ彼の句にも狐や狸を詠んだものが少なくない」

 

蕪村は理想とする絵画のような俳句を詠むため、実際に蕪村がきつねの様子を見たのかは、定かではありません。

 

「子狐のかくれ貌なる野菊哉」の表現技法

「野菊哉」の「哉」の切れ字

切れ字は「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときに使います。

 

「かな(哉)」は三句(五・七・五の最後の5文字)で使われ、詠嘆の表現や感動を表す言葉です。

 

また、意味やリズムの切れ目を句切れといいます。この句では、三句の最後に切れ字や言い切りの表現が含まれるため、句切れなしとなります。

 

「かくれ貌なる」の見立ての表現

見立てとは、あるものを別の何かへ例えることです。比喩ともいわれます。

 

明らかに比喩だとわかるように「~のごとし」「~のように」「~に似て」などの語を使った比喩を【直喩】といいます。

 

蕪村は、「…がお(貌・顔・)」という表現で、例えることが多いのが特徴です。

 

俳句では、発想や表現がありきたりになるため、見立ては避けた方が良いという意見もあります。しかし、必ずしも使ってはいけないわけではなく、使い方次第では問題ありません。

 

「子狐」は季語になる?

「子狐」「狐の子」は、春の季語です。

 

そうなると、この句に春と秋の季語が2つあることになります。1つの句に季語が2つ以上あることを「季重なり」といいます。

 

俳句は、季語を1つとすることが基本のため、季重なりは避けたほうがよいとされます。しかし、俳句のなかでどちらの季語が主役の役割か、はっきりしている場合は、季重なりとはなりません。

 

この場合、「野菊」が主役とわかるため、季語は「野菊」となります。

 

また、「子狐」は春に生まれ、秋には親元を離れ独り立ちします。この句の「子狐」は生まれたばかりではなく、成長した子狐だと想像できます。

 

「子狐のかくれ貌なる野菊哉」の鑑賞文

 

与謝蕪村は芸術家として活躍していました。その芸術家として培った優れた色彩感覚と写実的な手法を用いて、自分の理想とする風景や実際に見た風景を1枚の絵を見ているかのように、俳句に表現することが出来たのです。

 

この句では、蕪村が子狐の様子を実際に見たのかはわかりません。

 

しかし、子狐が野菊でかくれんぼをしている様子がぱっと浮かんでくる、とても可愛らしくほほえましい句です。

 

のどかな秋の日を表現する、蕪村の絵画的な描写のすばらしさが表れています。

 

作者「与謝蕪村」の生涯を簡単にご紹介!

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(与謝蕪村 出典:Wikipedia)

 

与謝蕪村は、享保元年(1716年)摂津国、現在の大阪府大阪市に生まれました。 本名を谷口信章といい、与謝の姓は結婚後に、蕪村の雅号は40歳近くなってから名乗りました。

 

独学で絵を習い、画家としても活躍し、俳句を賛した簡単な絵を添える俳画を、芸術の様式として完成させました。

 

蕪村は、江戸前期に活躍し俳諧の芸術性を高めていった松尾芭蕉に強いあこがれと尊敬の念を持ち、芭蕉の足跡である「おくのほそ道」を旅したこともありました。

 

天明3年(1784年)68歳で永眠しました。

 

存命の間は、あまり作品を評価されることはなかったのですが、明治以降の正岡子規や昭和初期の萩原朔太郎らの発表により、作品が評価されるようになりました。

 

与謝蕪村のそのほかの俳句

与謝蕪村の生誕地・句碑 出典:Wikipedia