【笠にとんぼをとまらせてあるく】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

俳句は五・七・五の十七音で表現する、世界でも短い詩の1つです。

 

季節の自然や出来事を取り入れた季語を詠み込むことによって、多彩な表現と感情を表現できます。

 

今回は、種田山頭火の有名な俳句の一つである「笠にとんぼをとまらせてあるく」をご紹介します。

 

 

本記事では、「笠にとんぼをとまらせてあるく」の季語や意味・詠まれた背景・表現技法・作者について徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「笠にとんぼをとまらせてあるく」の作者や季語・意味・詠まれた背景

 

笠にとんぼをとまらせてあるく

(読み方:かさにとんぼを とまらせてあるく)

 

この句の作者は「種田山頭火(たねださんとうか)」です。

 

 

種田山頭火は明治から昭和にかけて活躍した俳人で、季語を使わず五七五の韻律も使用しない無季自由律俳句で知られています。また流浪の旅をしていたことでも有名で、一部は日記として行程が残されています。

 

 

意味(現代語訳)

こちらの句を現代語訳すると…

 

「被っている笠にトンボがとまったので、そのままとまらせて歩いている」

 

という意味になります。

 

「笠」とは雨を遮るための傘ではなく頭に直接被るもので、まるでブローチのようにトンボがとまって離れなくなっています。その様子を見て、旅は道連れと言わんばかりにそのまま歩いていく作者の様子を詠んでいます。

 

季語

 

この句の季語は「とんぼ」、季節は「秋」です。

 

この「とんぼ」は種類が言及されていませんが、子季語として「オニヤンマ」「青とんぼ」「黄やんま」など色々なトンボの種類の総称として使用される季語です。赤とんぼを詠みたい場合は「赤とんぼ」という季語が独立して存在しているので、そちらを使いましょう。

 

※しかし、こちらの俳句は自由律俳句のため、季語なしの「無季句」と考える説が一般的です。山頭火自身が歩んで来た俳句人生を考えると、季節にとらわれずに自分の思いを自由に表現したと考えられます。以上の理由から、こちらの俳句は季語を持たない「無季句」であると言えます。

 

この句が詠まれた背景

この俳句は、1927年から28年にかけて西国を行脚している時に詠まれた一句です。

 

句集に「あてもなくさまよう」と書いてあることから、特に目的地を決めていない行脚であり、同行者は存在していないことがわかります。

 

この頃の作者は雲水という修行僧の姿で旅をしていますが、頭には網代笠という笠を被っていました。1人で山野をさまよっていたこの時期には、多くの自然を対象とした有名な自由律俳句が詠まれています。

 

 

「笠にとんぼをとまらせてあるく」の表現技法

句切れなし

この句には句切れがなく、最後まで一息に読めます。

 

ふと立ち止まってトンボを確認したというよりも、歩き続けている途中でトンボがとまったのでそのまま一緒に歩いている、という流れるような動きを想像させる効果があります。

 

自由律俳句

この句は五七五の韻律の伝統俳句ではなく、自由に言葉を配置する自由律俳句になっています。

 

作者は季語を使わない無季自由律俳句も手がけており、季語や韻律のルールをあえて守らないことで、自分の心情をダイレクトに伝える効果があります。

 

「笠にとんぼをとまらせてあるく」の鑑賞文

 

この俳句は作者が雲水姿で関西地方を行脚していた時によまれています。

 

この放浪の旅に出た理由として「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」と作者は句集『草木塔』で述べています。

 

この頃の作者は出家得度したにも関わらず「惑ひ」を抱えており、その理由と解消する方法を探すかのように各地に放浪していたのでしょう。

 

そんな孤独な旅をしていたところ、ほんの少しの間だけの同行者を得たことを詠んだのがこの俳句です。笠にトンボを付けてどこまで歩いていったのでしょうか。

 

作者「種田山頭火」の生涯を簡単にご紹介!

(種田山頭火像 出典:Wikipedia

 

種田山頭火は1882年(明治15年)に、現在の山口県別府市に誕生しました。本名は種田正一(たねだしょういち)といいます。

 

山頭火は大地主の家に生まれて、当時としては裕福な家庭で育ちましたが、10歳の時に母が自死してからは人生が大きく変わってしまいました。現在の早稲田大学に進学するほど、頭脳明晰な人物でしたが、持病のために志なかばで退学せざるを得ませんでした。

 

以降は、父の酒屋を一緒に切り盛りしていきますが、やがて家業までも倒産。さらには、父や兄弟、さらに妻子とも離別して、孤独な人生を歩みます。40歳の時には自殺を図りますが、結局は未遂に終わり、命を助けてくれた寺院で過ごします。

 

自らも僧侶として仏の世界に進む道を選択しますが、僧として修行するには歳が行き過ぎており、修行僧になる夢は叶いませんでした。最終的に、山頭火は拓鉢を持って諸国を巡る行脚僧の道を進みますが、その生活は放浪生活となんら変わりませんでした。

 

山頭火は諸国を旅するなかで、自由律俳句のスタイルで数多くの作品を残しました。それらの作品の多くが、己の人生や旅先で目にした風景などをテーマにしています。

 

たしかに、山頭火の人生は波乱に満ちていましたが、俳人としては「自由律俳句」を代表する読み手としてその名を残しました。

 

種田山頭火のそのほかの俳句

種田山頭火生家跡 出典:Wikipedia)