【語られぬ湯殿にぬらす袂かな】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

五・七・五の十七音で、作者の心情や経験を綴り詠む「俳句」。

 

季語を使って表現される俳句は、とても短い言葉でも、作者の思いや自然の豊かさなどに触れることができます。

 

今回は、松尾芭蕉の有名な句の一つ語られぬ湯殿にぬらす袂かなという句をご紹介します。

 

 

本記事では、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな

(読み方:かたられぬ ゆでんにぬらす たもとかな)

 

この句の作者は、「松尾芭蕉(まつおばしょう)」です。

 

江戸時代前期の俳諧師で、小林一茶や与謝蕪村とともに、有名な江戸俳諧の巨匠です。いろいろな旅に出て様々な句を読みました。俳諧を和歌と並ぶ新しい芸術として創りあげました。

 

 

季語

この句の季語は「湯殿詣で(ゆどのもうで)」、季節は「夏」です。

 

「湯殿詣で」は、出羽三山(でわさんざん)の一つである湯殿山(ゆどのさん)にのぼり、詣でることです。

 

「湯殿」は現在の山形県鶴岡市にある湯殿山のことです。湯殿山のほかに、羽黒山(はぐろさん)、月山(がっさん)のことをまとめて、出羽三山と呼ばれています。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「湯殿山の行者の掟として、その神秘を他言してはならない。自分も湯殿山に詣でた今、詳しくは何も語ることができず、ただそのありがたさに袂を濡らすばかりである。」

 

という意味です。

 

湯殿山は女人禁制で「恋の山」という別名があります。

 

また、湯殿山でのことは昔から「語るなかれ、聞くなかれ」とされており、この俳句が収められている「おくのほそ道」の文章の中にも、「惣而此山中、微細(総じてこの山の中の微細)、行者の法式として他言する事を禁ず。」という部分があります。

 

そのことからも、湯殿山でのことは決して語られないことだったということがわかります。芭蕉は「湯殿山での経験はとても貴重なものだが、決まりがあり誰にも語ることができない」ということをこの句に込めて詠んだのでしょう。

 

この句が詠まれた背景

この句は、俳諧紀行文である「おくのほそ道」に収められています。

 

元禄2年(1689年)ごろ、芭蕉が46歳の頃に詠まれたとされています。

 

芭蕉一行は、旧暦63日〜10日に今の山形県にある出羽三山に訪れました。その際、湯殿山に登り経験したことを俳句に詠みました。

 

芭蕉は湯殿山だけではなく、その前に訪れている羽黒山でも「涼しさや ほの三か月の 羽黒山」、月山でも「雲の峰 いくつ崩れて 月の山」と俳句を詠んでいます。

 

 

「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の表現技法

「袂」の慣用表現

袂とは、和服の袖付けから下の袋状の部分のことです。

 

古文では、「袂」や「袖」という言葉が出てくると、その殆どで「泣く」という意味を表します。この句でも、袂という表現で、泣くという意味を表現しています。

 

「袂かな」の切れ字

切れ字は主に「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときや、作者が感動を表すときに使います。

 

この句は「袂かな」の「かな」が切れ字にあたります。

 

「かな」と表現することで、「ただ袂を涙で濡らすばかりだ……」と余韻を持たせています。

 

また、この句では、切れ字の「かな」が、三句目(結句)にあるので「句切れなし」となります。

 

「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の鑑賞文

(左:湯殿山 、中央:姥ヶ岳 、右:月山 出典:Wikipedia

 

湯殿山は、月山や羽黒山とともに出羽三山の1つで、標高1500mの山です。

 

修験道の霊場でもあり修行する者が向かいますが、その詳細については「語るなかれ、聞くなかれ」とされており、謎が多い状態です。

 

その中で「何も他言できない、でも湯殿山に登り経験したことを何か書き記そう」とこの句を詠んだのでしょう。

 

「袂を涙で濡らすだけだ」という表現からは湯殿山の神秘さが感じられます。

 

その荘厳な姿や湯殿山での経験など、湯殿山での時間がいかに素晴らしいものだったかということが、この句から伝わってきます。

 

作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!

(松尾芭像 出典:Wikipedia)

 

松尾芭蕉は、本名を松尾宗房(むねふさ)といい、寛永21年(1644年)伊賀上野、現在の三重県伊賀市に生まれました。 

 

13歳の時に父親を亡くし、19歳の時に、主君藤堂良忠に仕えました。仕えた良忠が俳句を詠んでいたため、芭蕉も俳諧の道に入ったとされています。

 

そして芭蕉が23歳のとき、仕えていた良忠が25歳の若さで亡くなったため、藤堂家を退き、京都へ向かいました。

 

その後、江戸へ向かい、江戸での修行の甲斐があって、俳諧宗匠になりました。しかし、俳諧宗匠の安定した暮らしより、静かな場所で厳しい暮らしを送りながら文学性を追求しようと、37歳の時に深川に移り住みました。門下からもらった「芭蕉」がとても茂ったことから、ここの住まいを「芭蕉庵」と呼び、号を「芭蕉」と改めました。

 

39歳の時に芭蕉庵が焼失し、芭蕉は江戸に帰りましたが、40歳の時にまた芭蕉庵は再建されました。

 

芭蕉は41歳の時に「野ざらし紀行」、44歳の時に「鹿島紀行」「笈の小文」、45歳の時に「更科紀行」などにまとめられた数々の旅に出て、俳句を詠みます。

 

そして、芭蕉が46歳の時に門人の曾良とともに江戸を発ち、約5ヶ月間にも及ぶ長い旅に出ました。

おくのほそ道は、この芭蕉の一生の中で最も長い旅の記録と旅の中で詠んだ俳句をまとめた俳諧紀行文です。

 

推敲に推敲を重ね、旅から5年後におくのほそ道が完成しました。おくのほそ道が完成した年の元禄7年に、芭蕉は大坂にて51歳で亡くなりました。

 

「さび」「しをり」「軽み」という精神を「蕉風」として確立させ、和歌の連歌から始まった俳諧を独立した芸術として発展させました。数多くの旅を通して名句を生み、俳諧の世界を広げました。俳諧を和歌から独立した芸術に発展させた、俳諧文学の確立者と言えます。

 

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia