【石山の石より白し秋の風】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

五・七・五のわずか十七音に心情や風景を詠みこむ「俳句」。

 

詠み手の心情や背景に思いをはせて、いろいろと想像してみることも俳句の楽しみのひとつかもしれません。

 

今回は、有名な句の一つ石山の石より白し秋の風という句を紹介していきます。

 

 

本記事では、石山の石より白し秋の風の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきます。

 

俳句仙人

ぜひ参考にしてみてください。

 

「石山の石より白し秋の風」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

石山の 石より白し 秋の風

(読み方:いしやまの いしよりしろし あきのかぜ)

 

この句の作者は、「松尾芭蕉(まつおばしょう)」です。

 

江戸時代前期の俳諧師で、数多くの旅を通して名句を生み出し、俳諧の世界に新しい道を開きました。与謝蕪村や小林一茶などと並び称される江戸俳諧の巨匠の一人です。

 

 

季語

この句の季語は「秋の風」、季節は「秋」です。

 

「秋の風」は秋になって吹く風。立秋のころに吹く秋風は、秋の訪れを知らせる風です。

 

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この秋はいつ頃なのでしょうか?

 

これには、明治初期まで使われていた旧暦が関係してきます。

 

旧暦では、4月~6月を夏、7月~9月を秋としています。一方、現在使われている新暦では、夏を5~7月、秋は8~10月としています。

 

このように旧暦と新暦には、1か月近くズレがありますが、俳句では旧暦に沿って季語が決まっており、現代になっても旧暦のままの季語を使用しています。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「この那谷寺の境内は、奇石の重なる石山で白くさらされているが、ここにいま吹き過ぎる秋風は、この那谷寺の石山よりさらに白く感じられることだ。」

 

という意味です。

 

 

那谷寺は越前の国の古刹(こさつ=古い寺)で、灰白色の凝灰岩でできた山腹の洞窟の中に観音堂があります。千手観音を祀るお寺で、奇岩として知られています。

 

「石山」と言えば、普通は近江の石山寺を指しますが、那谷寺の石は近江の石山よりも土地が白いので、この句は那谷寺について詠んだ句と考えられています。

 

しかし、芭蕉は石山寺と関わりが深いので、この「石山」が「石山寺」のことと言われることもあります。

 

また、秋を白色とするのは古代中国思想の「五行説」(ごぎょうせつ)が関係しています。五行説では、季節を色に例えており、秋は色なき季節で「白」とされています。

 

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目の前に広がる石山の白さと、肌に感じる秋の風(白の季節)を感じ、詠んだのでしょう。

 

この句が詠まれた背景

この句は、おくのほそ道に収められています。

 

元禄2年(1689年)ごろ、芭蕉が46歳の頃に詠まれたとされています。

 

おくのほそ道は、松尾芭蕉が46歳の時に門人の曾良とともに江戸を発ち、約5ヶ月間、約2400キロメートルもの芭蕉の一生の中で最も長い旅をまとめた紀行文です。その旅の中で、多くの優れた句を作りました。

 

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おくのほそ道自体は、推敲に推敲を重ね、旅から5年が経ち完成しました。

 

 

「石山の石より白し秋の風」の表現技法

「石より白し」の「し」の切れ字

切れ字は「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときに使います。

 

この句は「石より白し」の「し」が切れ字にあたります。

 

俳句の切れは、文章だと句読点で句切りのつく部分にあたります。

 

「白し」の「し」は、形容詞「白し」の終止形活用語尾で「言いきりの形」となり、俳句に「切れ」を生み出しています。

 

「し」で句の切れ目を強調することで、石山の石より白いと、「白さ」をより強調することができます。

 

また、五・七・五の五の句、つまり二句に句の切れ目があることから、「二句切れ」となります。

 

「秋の風」の体言止め

体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める表現技法です。

 

体言止めを使うことで、美しさや感動を強調する、読んだ人を引き付ける効果があります。

 

芭蕉が、吹き過ぎる秋風は石より白い、と感じる様子を強調しています。

 

「石山の石より白し秋の風」の鑑賞文

 

この句が詠まれたのは、おくのほそ道の旅が49ある項目のうちの、42番目の「山中の温泉」という山中温泉に向かう途中の石川県小松市の那谷寺です。

 

那谷寺は、花山法皇33ヶ所の観音堂を巡礼したのち、ここに観音堂を安置し、那谷寺と名付けられました。

 

その名の由来は、那智・谷汲(四国33ヶ所の第一番札所の和歌山県の那智山青岸渡寺と、最終札所の岐阜県の谷汲山華厳寺)の頭の文字2字をそれぞれ取って名付けられたと言われています。

 

観音堂のある岩山はさまざまな形で重なり、いかにも尊くすばらしいと思う中で、この句が詠まれました。

 

松尾芭蕉は、俳諧を優れた芸術にまで高めました。自然と対比させながら、「人間のありよう」を深く探求していきました。

 

芭蕉の句は、自然と人間、そして常に人間のあり方や人生の過ごし方について内省があり、その部分が私たちの心を打つ要因なのかもしれません。

 

「石山の石より白し秋の風」の補足情報

曾良旅日記による実際の行程

『おくのほそ道』では、小松の多田神社で実盛の兜などを見た後に那谷にある那谷寺へ参詣して「石山の」の句を詠み、山中温泉に入って曾良と別れています。

 

しかし、『曾良旅日記』だと順序が変わっていて、4小松から山中温泉へ向かい、再び小松へと戻る途中で那谷に立ち寄り曾良と別れている4のです。

 

順序変更と「大慈大悲」

小松→那谷寺→山中温泉という『おくのほそ道』と、小松→山中温泉→那谷寺という『曾良旅日記』は大きな行程の差異がないため、4芭蕉が作為的に俳句の順序を入れ替えている部分4です。

 

それではなぜ芭蕉は順序を入れ替えたのでしょうか。

 

その理由として、那谷の項目に出てくる「大慈大悲の像」と紹介される観音様があります。

 

『おくのほそ道』で35番目の項目にあたる那谷の前に配置された33番の金沢と34番の多田神社の項目には、それぞれ死を悼む俳句が並んでいます。

 

金沢では、門弟の死を嘆いた下記の句を詠んでいます。

 

「一笑といふ者は、この道にすける名のほのぼの聞えて、世に知る人も侍りしに、去年の冬早世したりとて、その兄追善をもよほすに、塚も動け我が泣く声は秋の風」

(訳:一笑という者は、俳諧での評判がほのかに広まって、世間の人も知っているが、去年の冬に早世したということで、その兄が追善の句会を催したので、塚も動いてくれ。私の来訪を待ちかねていた人の死を知り、私の泣く声は秋の風に乗って響いている。)

 

また、多田神社では、斎藤実盛の討死の様子や遺された物を偲びながら下記の俳句を詠んでいます。

 

「実盛討死の後、木曾義仲願状にそへてこの社にこめられ侍るよし、樋口の次郎が使ひせし事ども、まのあまのあたり縁起に見えたり。むざんやな甲の下のきりぎりす」

(訳:実盛が討ち死にした後、木曽義仲が供養の文書をつけて、この社に納めるようにしたことや、樋口次郎がその使いをしたことなどが縁起にそのまま書いてある。なんと無惨なことだ。討死した老武者が付けていた兜の下ではコオロギが鳴いている。)

 

これらの句の後に「大慈大悲」という言葉を置くことで、一切衆生の苦を取り除き、楽を与える広大無辺の慈悲を与える観音様によって4死の悲しみや諸行無常の悲しみを包み込む効果4があるのです。

 

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『おくのほそ道』は紀行文の形をとってはいますが、このように俳句の順序や訪れた場所の順序が入れ替えられています。詠んだ人がどのように感じるかを重んじて編纂されたことが良くわかる部分です。

 

作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!

(松尾芭像 出典:Wikipedia)

 

松尾芭蕉は、寛永21年(1644年)伊賀国、現在の三重県伊賀市に生まれました。 

 

本名を松尾宗房(むねふさ)といいました。13歳の時に父親を亡くし、そののち19歳の時に、藤堂藩伊賀村の侍大将藤堂良清の息、良忠の近習(君主の側に仕える役)になりました。

 

その良忠が俳人であったため、芭蕉も俳諧の道に入ったとされています。

 

ところが、良忠が25歳の若さで没したため、23歳だった芭蕉も、まもなく藤堂家を退き、江戸に向かい、江戸で修行をしました。

 

江戸での修行と甲斐あって、俳諧宗匠になるものの、37歳の時に深川に移り住みました。俳諧宗匠としての安定した生活を捨てて、厳しい暮らしの中に身を投じ、文学性を追求しようとしたとされています。

 

こののち、芭蕉は数々の旅に出て俳句を詠みます。

 

そして、46歳の時に、「もしかしたらもう戻ってくることはできないかもしれない」という覚悟を決め、家も売り、おくのほそ道への旅に出ました。

 

旅から5年後、おくのほそ道が完成した元禄7年に、芭蕉は51歳で亡くなりました。

 

俳号は、はじめは宗房(そうぼう)と名乗り、次に桃青(とうせい)、そして芭蕉(ばしょう)と改めました。

 

芭蕉は、旅をする中で、「自然と人間」という主題を持ち、数々の句を詠みました。数多くの旅を通して名句を生み、俳諧の世界を広げた日本を代表する俳人で、古典文学の作者でもあります。

 

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia