【もらひくる茶碗の中の金魚かな】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

最近ではテレビの番組でもよく取り上げられている「俳句」。

 

五・七・五の十七音で、作者の気持ちや見た景色を詠むのが特徴です。季語を使って表現される俳句はわずか十七音ですが、その短い言葉の中で作者の思いなどを感じることができます。

 

今回は、内藤鳴雪の句もらひくる茶碗の中の金魚かなをご紹介します。

 

 

本記事では、「もらひくる茶碗の中の金魚かな」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「もらひくる茶碗の中の金魚かな」の俳句の作者や季語・意味

 

もらひくる 茶碗の中の 金魚かな

(読み方:もらいくる ちゃわんのなかの きんぎょかな)

 

この句の作者は、「内藤鳴雪(ないとうめいせつ)」です。

 

内藤鳴雪氏は明治から大正時代を生きた俳人です。20歳以上年下の正岡子規に影響を受け本格的に俳句を始め、指導を受けました。端正温雅な作品が多くあります。

 

季語

この句の季語は「金魚」、季節は「夏」です。

 

「金魚」は、今から1500年ほど前に中国から日本にやってきた観賞用の魚です。尾びれをひらひらさせて泳ぐ姿が涼しげであることから、夏の季語とされています。

 

現代でも、夜店や夏祭りの出店や夏によく目にしますね。金魚が伝わってきた室町時代は、とても高価で庶民には飼えないものでしたが、江戸時代の後期に大量に養殖され、庶民もお家で飼えるようになったと言われています。

 

たくさんの種類がありますが、ひらひらと華やかな「流金」と、シャープな姿で金魚すくいなどでよく見られる「和金」が有名どころです。そんな金魚の種類名も夏の季語で、他にも、「金魚鉢」や「金魚玉」「金魚売」も夏の季語になっています。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「金魚をあげると言われたので、分けてもらうことにしました。入れるものがなかったので、茶碗に入れて持って帰ります。私が歩くたびに、茶碗の中の金魚も一緒に、ゆらゆらと揺れています。」

 

という意味です。

 

この時代は金魚をもらうとき、今のようにビニール袋など手軽なものがなかったので、身近な茶碗にいれてもらったのでしょうか。浅い茶碗に入った金魚をジーっと見つめながら、こぼさないようにゆっくりゆっくり歩く様子が浮かびます。

 

「もらひくる茶碗の中の金魚かな」の表現技法

「金魚かな」の切れ字

切れ字は主に「かな」「や」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときや、作者が感動を表すときに使います。

 

この句は「金魚かな」の「かな」が切れ字にあたります。

 

「かな」と表現することで、いただいた金魚に対する作者の思いが強調されています。

 

句切れなし

「句切れ」とは、言葉の意味や俳句のリズムの切れ目のことです。

 

この句では、切れ字の「かな」が三句目(結句)にありますので、「句切れなし」となります。

 

「もらひくる茶碗の中の金魚かな」の鑑賞文

 

当時は今のように冷房などの空調もなかった時代、人々は涼しげに泳ぐ金魚を眺め、夏を感じ涼んでいたことでしょう。

 

作者も自宅に帰りゆっくり金魚を眺め涼を取ることを心待ちにワクワクしながら歩いたに違いありません。

 

鮮やかな赤色の金魚が優雅に泳ぎ、その様子を眺める作者の様子が目に浮かびます。

 

金魚を眺め涼む夏の様子が、こうして現代に俳句として残っていることが嬉しく感じられます。

 

作者「内藤鳴雪」の生涯を簡単にご紹介!

(内藤鳴雪 出典:Wikipedia

 

内藤鳴雪は弘化4年(1847年)に江戸、現在の東京都に生まれました。 本名を内藤素行(ないとうもとゆき)といいます。

 

鳴雪は幼い頃から父に漢籍を教わり学びます。1857年、11歳の時に父の転勤で松山に移り住み、藩校明教館で漢学、また剣術を習いました。「文武」では、どちらかというと「文」のほうが得意だったと言われています。

 

1863年、17歳で元服し幹部の卵として明教館に寄宿し、大原武右衛門(正岡子規の祖父)から漢詩を学びます。その後、京都や東京へ転勤したりしますが、1869年に松山に戻り権少参事として明教館の学則改革に携わりました。

 

1880年、33歳の時に文部省に転じ、常盤会寄宿舎監督を引き受け、1891年に退官した後も寄宿舎監督を続けました。寄宿生であった正岡子規や竹村黄塔、その弟の河東碧梧桐らに漢詩の添削をし、1892年・21歳年下の正岡子規を俳句の師として本格的に俳句を始めました。

 

1897年、50歳の時に高浜虚子が東京で続刊したホトトギスの投句を選びます。他にも、読売新聞などの俳句選者を輪番的に務めました。

 

1907年に舎監を辞めた後も寮の世話役をし、1917年に旧寮生による寿碑『元日や一系の天子不二の山』が松山市の道後公園に建ちました。その事前に行われた東京での祝賀演能『自然居士』では、高浜虚子がシテを、河東碧梧桐がワキを舞い踊りました。

 

1925年に肋膜炎、軽い脳溢血を患い、翌年の1926年に78歳で亡くなりました。俳号の「鳴雪(めいせつ)」は、「なりゆき」とも読め、「何事も成行きに任す」の当て字だと言われています。

 

内藤鳴雪のそのほかの俳句

 

  • 朝立や馬のかしらの天の川
  • 庭の木に山繭飼ひし葉のこぼれ
  • 横たはる五尺の榾やちょろちょろ火
  • 元日や一系の天子不二の山
  • 初霞立つや温泉の湧く谷七つ
  • 六日はや睦月は古りぬ雨と風
  • 舞初や肩に輝くかづけもの
  • 初東風や富士に筋違う凧
  • 雀子や走りなれたる鬼瓦
  • 我が声の吹き戻さるる野分かな
  • 五月雨折々くわっと埜山かな
  • 折りくべて霜湧きいづる生木かな
  • したたかに雨だれ落つる芭蕉かな
  • 湖に山火事うつる夜寒かな
  • 後の雛うしろ姿ぞ見られける
  • 朝寒や三井の仁王に日のあたる
  • 盃の花押し分けて流れけり