【とんぼつり今日はどこまで行ったやら】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

五・七・五のわずか十七音に心情や風景を詠みこむ「俳句」。

 

幅広い年齢層に親しまれており、芸能人が俳句を詠む番組や俳句を応募するキャンペーンなどもよく見かけるようになりました。

 

今回は、俳句の中でも有名な句「とんぼつり今日はどこまで行ったやら」という句をご紹介します。

 


本記事では、「とんぼつり今日はどこまで行ったやら」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「とんぼつり今日はどこまで行ったやら」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

とんぼつり 今日はどこまで 行ったやら

(読み方:とんぼつり きょうはどこまで いったやら)

 

この句の作者は、「加賀千代女(かがのちよじょ)」と言われています。

 

加賀千代女は江戸時代の俳人です。この句は、千代女の作品とされていましたが、千代女が残した1900句余りの句の中に残っておらず、伝説ではないかとされています。           

 

季語

この句の季語は「とんぼつり」、季節は「秋」です。

 

「とんぼとり」ではないかと思われるかもしれませんが、以前はとんぼつりというやりかたで、とんぼを捕まえていました。

 

とんぼつりというのは、竹の竿の先にとんぼを糸で結んで、飛ばして他のとんぼを誘い寄せて、捕まえるやりかたです。

 

また、鳥もちを竹の竿の先へくっつけて、とんぼをとるというやりかたもあります。

 

今では、全くみかけないやりかたですが、昔の子供たちは虫取り網ではなく、こういったやり方でとんぼを捕まえていました。

 

ちなみに、「とんぼ」は、とんぼの種類によっては夏の季語になります。糸のように細いイトトンボは、夏の季語となります。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「とんぼつり、今日はどこまでいったのだろうか。」

 

という意味です。

 

とんぼをつかまえに今日は、うちの子供はどこまで行ったのかしら、という母親の気持ちを詠んだ句です。

 

夕方に、まだうちの子供は帰ってこないなあ、と窓から外をのぞく母親の姿さえ想像できます。

 

この句が詠まれた背景

この句は、加賀千代女が詠んだとされていますが、たしかではありません。

 

小林一茶が、この句を千代女の句として引用したことから、この句は千代女の作品であるとされてきました。

 

しかし、千代女が残した1900句余りの句の中には、この句が見つからないことから、伝説ではないかとされています。

 

「とんぼつり今日はどこまで行ったやら」の表現技法

 

ここでは、「行ったやら」の「やら」について簡単に説明します。

 

「やら」は助詞として、不確かな疑問や想像を表現します。「…しただろうか」と訳することが多いです。

 

「やら」は切れ字ではありませんので、注意しましょう。

(※切れ字とは、「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときに使う言葉のこと)

 

「とんぼつり今日はどこまで行ったやら」の鑑賞文

 

加賀千代女には、1人の息子がいました。定かではありませんが、幼いころに亡くなったとされています。

 

この句には、亡くなってしまった息子は、きっと遠くまで、とんぼをつかまえに行ってしまったのだろう、そのうち「ただいま」と言って帰ってこないか、と子供を偲ぶ思いが表現されています。

 

また、もし今頃、成長して大きくなっていたら、外で遊んでいる子供たちのように、とんぼつりでもして遊びまわっていたかもしれないなと思う気持ちかもしれません。

 

悲しい・つらいということを直接、言葉にして表現することはせず、情景や風景からその気持ちを想像できるように俳句に詠みこむことで、より深い思いを句に込め、読んだ人に想像させ、感じ取れるようにしたのかもしれません。

 

言葉では言い表せない、わが子への深い思いが感じられます。

 

この句は、千代女の作品ではないとされていますが、千代女の作品にはやさしさや慈しみを感じ取れる句が多くあります。

 

そうしたことから、この句も多くの人々に千代女の句として親しまれるようになったのかもしれません。

 

作者「加賀千代女」の生涯を簡単にご紹介!

 

加賀千代女は、1703年(元禄16年)に現在の石川県白山市に生まれました。

 

松尾芭蕉が東北地方から北陸をたどって大垣までを旅した「奥の細道」の影響で、北陸の各地では、松尾芭蕉の蕉風の俳句が盛んになっていました。

 

千代女も、そうした環境に影響を受け、幼いころから俳句に親しんでいたとされています。

 

松尾芭蕉の弟子のひとり、各務志考(かがみしこう)が北陸を訪ねたとき、17歳の千代女は、志考のもとへ通い、弟子にしてほしいと頼んだとされています。志考の指導を受け、千代女の才能を大いに絶賛したことから、全国へと千代女の名が広がりました。翌年、結婚して(結婚していないとする説もあります)金沢へと嫁ぎますが、夫が病没したため1年余りで帰家したとされています。

 

その後、体が弱く結婚することはありませんでしたが、多くの俳人が千代女の家を訪ねて、彼女と俳句のやり取りをしました。

 

相次ぐ家族の不幸から、家業に従事するため一度は俳句を離れますが、40歳代後半から加賀の俳人たちの書画軸の作成が流行しはじめ、その流行とともに、また俳句の道へと戻ります。

 

1754年に52歳で剃髪し、素園という俳号を名乗ります。千代尼と呼ばれ、その存在は、地方の俳人へ大きな影響を与え地方の俳壇が盛んになるきっかけをつくりました。

 

72歳の頃には、与謝蕪村の「玉藻集」の序文を書いたとされています。1775年(安永4年)に病気を患ってしまい73歳にて亡くなります。

 

加賀千代女の作品には、朝顔の花がよく出てきます。このことから、石川県白山市では、市の花を「朝顔」とし、市民の栽培がとても盛んです。「千代女あさがおまつり」が開催され、俳句大会も開かれています。

 

加賀千代女のそのほかの俳句

朝顔に つるべ取られて もらい水 出典:Wikipedia

 

  • 朝顔に 釣瓶とられて もらひ水
  • 起きてみつ 寝てみつ蚊帳の 広さかな
  • 「夕顔や 女子の肌の 見ゆる時」
  • 「紅さいた 口もわするる しみづかな」
  • 「落ち鮎や 日に日に水の おそろしき」
  • 「初雁や ならべて聞くは 惜しいこと」
  • 「行春の 尾やそのままに かきつばた」
  • 「川ばかり 闇はながれて 蛍かな」
  • 「百なりや 蔓一すじの 心より」
  • 「蝶々や 何を夢見て 羽づかひ」
  • 「ころぶ人を 笑ふてころぶ 雪見哉」
  • 「髪を結う 手の隙あけて 炬燵かな」
  • 「月もみて 我はこの世を かしく哉」