【手毬唄かなしきことをうつくしく】俳句の季語や意味・表現技法・作者など徹底解説!!

 

五・七・五の短い音数で構成される「俳句」。

 

古代から連綿と続く日本の韻文文学にその源流をもつ詩歌の一種です。

 

古来からの流れを組みつつも、時代時代、世相に合わせてその姿をかえつつ多くの人に愛好されてきました。その時々に名句と呼ばれる句が生まれ、多くの人々の共感を得て受け継がれています。

 

今回はそんな数ある俳句の中でも有名な「手毬唄かなしきことをうつくしく」という高浜虚子の句を紹介していきます。

 

 

本記事では、「手毬唄かなしきことをうつくしく」の季語や意味・表現技法・作者について徹底解説していきます。

 

俳句仙人

ぜひ参考にしてみてください。

 

「手毬唄かなしきことをうつくしく」の季語や意味・詠まれた背景

 

手毬唄 かなしきことを うつくしく

(読み方:てまりうた かなしきことを うつくしく)

 

こちらの句の作者は「高浜虚子(たかはしきょし)」です。

 

高浜虚子は明治時代から昭和時代にかけて、俳人そして小説家として活躍した人物です。

 

正岡子規に師事した虚子は、その一生を終えるまで忠実に子規の教えを貫き、自由律俳句を擁護する活動が高まりを見せるなかで、伝統俳句を守り続けました。虚子の句風は「花鳥風体」と呼ばれており、写実的な表現を用いた句が特徴です。

 

 

季語

こちらの句の季語は「手毬唄」です。「てまりうた」と読みます。

 

基本的には自然の草木や動物、天候などを表す言葉が季語になっていることが多いですが、この句にはそういった言葉は含まれていません。

 

「手毬」とは、布や糸くずを芯にして糸を巻いて球体の形にした玩具のこと。手毬唄は、手まりをつきながら歌う遊びのことです。

 

手毬唄は、凧揚げや羽根突きのように、お正月の遊びとされますので、新年の季語となります。

 

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季節は四季というように春夏秋冬ありますが、新年はこの四季でいえば春にあたりますが、一年の中でも特別な期間として、春の季語とは別に新年の季語があるのです。

 

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「子どもたちが無邪気に手毬唄を歌いながら遊んでいるよ。子どもたちは何気なく歌っているのだろうが、ずいぶん悲しい内容の歌を美しく歌っていることだ。

 

という意味なります。

 

この句が詠まれた背景

こちらの句は昭和14年(1939年)に作られた句です。

 

これは、第二次世界大戦が勃発した年。明るいことばかりではなかった時代の句なのです。

 

手毬唄のひとつとして、「あんたがたどこさ、肥後どこさ、熊本さ…」といった歌があります。この歌はお手玉をするときに歌うこともあり耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか?

 

これ以外にも、世相を反映した手毬唄も時代時代に歌われてきました。西南戦争の後には、西郷隆盛の娘が切腹した父の菩提を弔う、といった内容の手毬歌も歌われたといいます。

 

昭和の中期ごろまでにはやった手毬唄には、日露戦争などをテーマにした手毬唄もよく歌われていました。それらの歌は、戦争で兵が死ぬことや敵国を差別する蔑称も歌詞に含まれています。

 

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作者が聞いた手毬唄が何であったのかわかりませんが、手毬唄は子どもの遊びの歌でありながら、必ずしも明るい歌ばかりではなかったのです。

 

「手毬唄かなしきことをうつくしく」の表現技法

 

こちらの句で用いられている表現技法は・・・

 

  • 「手毬唄」での初句切れ
  • 「かなしきことをうつくしく」省略法

     

    になります。

     

    「手毬唄」での初句切れ

    句切れとは、句内の意味や内容、調子(リズム)の切れ目のことです。

     

    ここでの切れ目は、切れ字と呼ばれる感動や詠嘆を表す言葉で句切ることが多いです。

     

    切れ字の代表的なものには、「や」「かな」「けり」などがありますが、言い切りの形でも句切れとなります。

     

    今回の句の場合は、切れ字も言い切りの形も出てきてはいませんが、

     

    • 「手毬唄」という言葉とそれ以降の言葉では、意味の上で切れ目があること
    • ここで一拍おくことでより印象的に読めること

     

    以上のことから、「手毬唄」で句切れると考えられています。最初の五音、つまり初句で切れているので「初句切れ」となります。

     

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    ただ、この句には切れは無いと言う説もあります。

     

    「かなしきことをうつくしく」の省略法

    省略法とは、文章を最後まで言いきらず、文脈から何を言いたいかを読み手側に想像させる表現技法です。

     

    「かなしいことをうつくしく」と言うのはつまり「ずいぶん悲しい内容の歌を、美しくね…」と途中で言葉を止めてしまっている状態です。

     

    このように、途中で言葉を止め、その後の言葉を省略することで句に余韻を残すことができます。

     

    「手毬唄かなしきことをうつくしく」の鑑賞文

    「ac 写真 手毬」の画像検索結果

     

    高浜虚子は平明な句を良しとした俳人です。

    (※平明とは、明らかでわかりやすいこと)

     

    この【手毬唄かなしきことをうつくしく】の句も非常に平明な句です。

     

    難解な言葉は用いられていません。しかし、子どもの無邪気な美しさの裏にある悲しい手毬唄、しみじみと陰影のある一句です。

     

    「かなしきことをうつくしく」をすべてひらがなで表記しているところも、子どものやわらかさやもろさを印象的に映しているといえます。

     

    日本が戦争へとむかうこの時、高浜虚子は60代です。

     

    俳句仙人

    我が身のことよりも行く末長いこどもたちのこと、苛烈な時代を生きる弱い立場のものたちが気にかかったのかもしれません。

     

    「手毬唄かなしきことをうつくしく」の補足情報

    手毬唄の種類は全部で【5種類】ある

    手毬唄にはいくつか種類や傾向が見られます。

     

    1つ目は「数え歌」です。ひとつ、ふたつと数えていくもので、代表的な手毬唄と言えるでしょう。

     

    「いちもんめのいちすけさん」は以下のように歌詞が続きます。

     

    「いちもんめの いちすけさん

    一の字がきらいで

    一万一千一百石 一斗一斗一斗まで

    お倉におさめて

    二もんめに 渡した」

     

    2つ目は地名を紹介、または覚えるための歌です。明治後期から昭和にかけて流行った歌には、下記の歌のように各地の名所を歌ったものがあります。

     

    「一番はじめは一の宮

    二また日光中禅寺

    三また佐倉の惣五郎

    四はまた信濃の善光寺

    五つは出雲の大社(おおやしろ)

    六つ村々鎮守様

    七つは成田の不動様

    八つ八幡の八幡宮

    九つ高野の高野山

    十で東京心願寺」

     

    3つ目は伝承やおとぎ話を元にした手毬唄で、これは「あんたがたどこさ」などが特に有名でしょう。

     

    4つ目は上述のように戦争に関連するものです。特に東京で1950年代まで歌われていたものに「一列談判」というものがあり、日露戦争を歌ったものです。

     

    「一列談判破裂して

    日露戦争始まった

    さっさと逃げるはロシヤの兵

    死んでも尽すは日本の兵

    五万の兵を引き連れて

    六人残して皆殺し

    七月十日の戦いに、

    哈爾浜(はるぴん)までも攻め破り

    クロパトキンの首を取り

    東郷元帥万々歳」

     

    この歌も一から10までの読みが隠されているため、数え歌として使われていたのでしょう。

     

    5つ目は正月を祝う手毬唄で、季語としての「手毬唄」はここから来ていると考えられます。一から十二の1年分の数え歌でもあり、めでたい歌詞が並ぶものです。

     

    「一つとや

    一夜明くれば

    賑やかで 賑やかで

    お飾り立てたり

    松飾り 松飾り」

    「二つとや

    二葉の松は

    色ようて 色ようて

    三蓋松の

    上総山 上総山」

    俳句仙人

    このように一から十二までを数える手毬唄です。

     

    この句に詠まれた手毬唄はどの種類か?

    作者は手毬唄に対して「かなしきことを うつくしく」と詠んでいます。

     

    手毬唄の内容自体が悲しいものだとすれば、1つ目の数え歌や2つ目の地名紹介の歌は候補から外れるでしょう。

     

    3つ目の伝承を元にしたものは「道成寺の清姫」などの悲劇を元にしたものもあるため、悲しいと感じるかもしれません。

     

    また、5つ目の正月を祝う手毬唄は基本的にめでたい言葉が並ぶため、悲しいとは言えないでしょう。

     

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    そうなってくると、歌っている意味が戦争であるにも関わらず楽しそうに鞠遊びをしている4つ目の戦争関連の手毬唄を聞いた可能性が高いです。

     

    作者「高浜虚子」の生涯を簡単にご紹介!

    Kyoshi Takahama.jpg

    (高浜虚子 出典:Wikipedia)

     

    高浜虚子は明治7年(1874年)愛媛県松山市に生まれ。生家は旧松山藩士、士族の家の子どもでした。

     

    本名は高浜清(たかはまきよし)です。 

     

    高浜虚子の師は、あの有名な正岡子規」。正岡子規は、伝統的な和歌や俳諧を革新、近代的な短歌や俳句として文学の一ジャンルの基礎をつくった偉人です。

     

    高浜虚子は、正岡子規の弟子として公私にわたって付き合いがあり、正岡子規の流れをくむ俳句雑誌「ホトトギス」の編集にも携わりました。

     

    高浜虚子の作る句は「花鳥諷詠」(花や鳥といった自然の美しさを詩歌に詠みこむこと)、「客観写生」(客観的に情景を写生するように表現しつつ、その奥に言葉で表しきれない光景や感情を潜ませる)といったことが大切にされています。

     

    伝統を守りつつ、自らの言葉で名句を数多生み出していきました。

     

    昭和34年(1959年)には:勲一等瑞宝章も受賞。そして、昭和34年(1959年)神奈川県鎌倉市で亡くなりました。とても偉大な文化人でした。

     

    高浜虚子のそのほかの俳句

    虚子の句碑 出典:Wikipedia