秋は収穫の時期、美味しい秋の味覚といえば、みなさんはどんなものを思い浮かべますか?
俳句でも、たくさんの秋の味覚にまつわる句が詠まれています。
今回は、有名俳句の一つ「秋刀魚焼く匂の底へ日は落ちぬ」をご紹介します。
秋刀魚焼く匂の底へ日は落ちぬ…てね。すっかり秋だねえ… pic.twitter.com/TH9NOQulkb
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本記事では、「秋刀魚焼く匂の底へ日は落ちぬ」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「秋刀魚焼く匂の底へ日は落ちぬ」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
秋刀魚焼く 匂の底へ 日は落ちぬ
(読み方:さんまやく においのそこへ ひはおちぬ)
この句の作者は、「加藤楸邨(しゅうそん)」です。
加藤楸邨は、明治時代から平成にかけて活躍した俳人であり、国文学者です。
季語
この句の季語は「秋刀魚」、季節は「秋」です。
秋刀魚(さんま)は細長い魚で秋に脂がのり、秋の味覚を代表するもののひとつです。
昔から日本近海で獲れ、食卓に並んでいましたが、近年は天候や海水温度の上昇で漁獲量が減っています。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「夕食にと秋刀魚を焼く煙がもうもうと立ちのぼっていて、その煙の中へ夕日が沈んでいくよう見えた」
という意味です。
「匂の底」というのは、秋刀魚を焼いている煙の香ばしい匂いと煙を表現しています。ここでは、煙の中と訳しています。
「秋の日はつるべ落とし」という言葉もあるように、秋は急速に日が暮れていきます。秋刀魚を焼いていると、日がすっかり暮れてしまった状況を表しています。
この句が詠まれた背景
この句は1940年(昭和15年)に発表された第二句集「颱風眼」に収められています。
この年に楸邨は、東京文理科大学(現在の筑波大学)国文科を卒業し、再び教諭として勤めながら、10月には俳句雑誌「寒雷」を創刊します。
「寒雷」は、楸邨が、俳句において明るい情景だけでなく、もっと人間の生活と内面を描きたいと考えたことから、創刊されました。
この句も、日常の生活の1コマを切り取ったもので、楸邨が求めていた俳句のひとつとされています。
「秋刀魚焼く匂の底へ日は落ちぬ」の表現技法
「日は落ちぬ」の「ぬ」の切れ字
切れ字は「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときに使います。
「ぬ」は動作や作用が完了した、または実現したことを表現します。また、完了したことを強調する場合もあります。「~した」「~してしまった」という意味です。
「日は落ちぬ」は、「夕日がすっかりと沈んでしまった」と訳すことが出来ます。
また、切れ字のあるところで句が切れることを句切れといいます。この句では、三句の最後に切れ字や言い切りの表現が含まれるため、句切れなしとなります。
「秋刀魚焼く匂の底へ日は落ちぬ」の鑑賞文
秋刀魚を焼いている状況を詠んだ俳句は多くあります。
秋刀魚を、七輪の上で焼いているのでしょうか、もうもうと煙が立ち上がり、秋刀魚の焼けた香ばしい匂いが想像できます。
煙と匂いが充満していて、どんどんと夕日も、煙と匂いの中沈んでいってしまう、秋の日常生活の1コマが浮かんできます。
また、秋刀魚は、晩秋の季語です。晩秋とは、秋の終わりごろをさします。
季節の移り変わりを、秋刀魚を焼きながらしみじみと感じ、日が暮れてしまったことで、どことなくさみしさも感じさせる句です。
そして、楸邨は石田波郷や中村草田男らとともに「人間探求派」の句風と言われています。「人間探求派」は、自己の追及がそのまま俳句の追及となるよう、自己の内面を生活のうちに詠もうとすることです。
この句も、秋刀魚を焼いている日常生活の1コマだけでなく、楸邨が匂いと煙に沈む夕日に、何を考えていたのか、思いをはせることができます。
作者「加藤楸邨」の生涯を簡単にご紹介!
加藤楸邨(1905-1993)俳人 人間探究派。「鰯雲人に告ぐべきことならず」 #作家の似顔絵 pic.twitter.com/uHnN9aQIzF
— イクタケマコト:イラストレーター (@m_ikutake2) September 8, 2014
加藤楸邨は、明治38年(1905年)に現在の東京都大田区北千束に生まれました。
若くして父親が病気になり亡くなったため、進学をあきらめ、教員として働きはじめます。1931年に学校の同僚の誘いをきっかけに俳句を始めます。
近くの病院に応援診療に来ていた水原秋櫻子に出会い、師事し投句を始めます。すぐに頭角を現し、1933年には「第2回馬酔木賞」を受賞します。
1937年には俳句を学ぶために、教員を辞め、妻と3人の子供を連れて上京し、東京文理科大学(現在の筑波大学)国文科に入学します。中村草田男や石田波郷とともに「人間探求派」の作風と呼ばれ、「俳句のなかに人間としての生活を詠み、自己を表現する」ことを大切にしていました。
卒業後に俳句雑誌「寒雷」を創刊しますが、戦争が激しくなり休刊します。大空襲で財産や蔵書や原稿をほぼすべて失いますが、1946年8月に復刊させました。晩年は、病の療養をしながら後進の育成に努め俳句の普及に尽力しました。
平成5年(1993年)に88歳にて亡くなりました。
加藤楸邨のそのほかの俳句
- 燕はや帰りて山河音もなし
- 鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる
- 鰯雲人に告ぐべきことならず
- 寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃
- 木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ
- 蟇(ひきがへる)誰かものいへ声かぎり
- 隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな
- 火の奥に牡丹崩るるさまを見つ
- 雉の眸(め)のかうかうとして売られけり
- たんぽぽのぽぽと綿毛のたちにけり