【流氷や宗谷の門波荒れやまず】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

美しい自然の姿や、日々の営みの中で得られる感興を短い言葉で詠みこむ短い詩「俳句」。

 

日本の伝統的文芸でありながら、今なお進化を続け、世界からも注目されています。

 

今回は明治に生まれて、大正から句作をはじめ昭和、平成のはじめころまで活躍した俳人、山口誓子の「流氷や宗谷の門波荒れやまず」という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「流氷や宗谷の門波荒れやまず」季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「流氷や宗谷の門波荒れやまず」の作者や季語・意味

 

流氷や 宗谷の門波 荒れやまず

(読み方:りゅうひょうや そうやのとなみ あれやまず)

 

こちらの句の作者は「山口誓子」です。

 

山口誓子は、子どもの頃の一時期を樺太(からふと:現在のロシアのサハリン島)で過ごしました。そのころのことを思い出して作った句のひとつです。

 

季語

この句の季語は「流氷」、春の季語になります。

 

北の海では春になると冬に氷った海水が少しずつ溶け、流氷となって海の上を漂います。この現象は主にオホーツク海でみられます。

 

また、一見すると「流氷」は「氷」とつくので冬の季語をイメージしてしまいますが、流氷がやってくるのは、厳寒の北国の春の到来を意味しますので、春の季語となります。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「流氷が漂っているなあ。宗谷海峡に立つ波は激しく荒れて、やむことがない。」

 

という意味になります。

 

「宗谷」というのは、宗谷海峡のことです。北海道の宗谷岬と、ロシア連邦の樺太の西能登呂岬(現在では、ロシアのサハリン島のクリリオン岬にあたる)の間にある海峡で、オホーツク海と日本海を結びます。

 

また、「門波」というのは海峡に立つ波のことで、「万葉集」の歌にもある言葉です。山口誓子は、万葉調の抒情的な句も得意としていました。

 

この句の生まれた背景

(宗谷岬から見る宗谷海峡 出典:Wikipedia

 

この句は、大正15(1926)の作品で、山口誓子の第一句集『凍港』に所収されている句になります。

 

この句集は、昭和7年(1932年)刊行で、大正13年(1924年)から昭和7年(1932年)の句がまとめられており、樺太で過ごした少年時代に見た光景や経験を回想して詠んだ句が多く、「流氷や」もそういった句のひとつです。

 

この句について、山口誓子は・・・

 

「流氷の季節に宗谷海峡を渡ったのだ。船窓から見ると海峡は白々としていた。流氷群が海峡を東から西へ移動していたのだ。船は流氷群を通り抜けようとするから、流氷は船腹にぶつかって、ガリガリ音を立てた」

【引用:『自選自解句集』(昭和44年(1969年)刊行)】

 

と述べています。

 

つまり、こちらの句は生まれ故郷の京都に帰るため、樺太から宗谷岬に渡る連絡船に乗っていた時のことを回想して詠んだ句になります。

 

「流氷や宗谷の門波荒れやまず」の表現技法

「流氷や」の切れ字「や」(二句切れ)

切れ字とは句の流れを断ち切り、作者の感動の中心を効果的に表す語を指します。

 

「や」「かな」「けり」は代表的なものとしてよく知られていますが、他にもたくさんの切れ字が存在します。

 

今回の句については、「流氷や」の「や」が切れ字に当たります。

 

つまり、作者が「流氷」に心を動かされてこの句を詠んだことが分かります。

 

また、切れ字のあるところや、普通の文でいえば句点「。」がつくところを句切れと呼びます。この句は初句に切れ字「や」があることから、「初句切れ」の句となります。

 

「流氷や宗谷の門波荒れやまず」の鑑賞文

 

【流氷や宗谷の門波荒れやまず】の句は、寂しく・荒々しい雰囲気で、北国の浅い春、いまだ寒さ厳しい春を詠んでいます。

 

少年は故郷に帰るのですが、そこに迎えてくれる母はいません。屈託なく明るく家に帰る心境ではないのでしょう。冷たい荒波にもまれつつも、少年は生きていくのです。

 

「流氷や」と発したのは、厳寒の地に春を告げる流氷に感興を催したことを表しています。

 

続けて、海峡に立つ波の荒々しさを詠みあげるのです。波にあおられ、流氷は音を立てて船にぶつかり、船は揺れたことでしょう。

 

柔らかい春めいたイメージはみじんもなく、厳しさのみが漂います。流氷が春の兆しであるといっても、まだまだ厳しい余寒はなおも続くのでしょう。

 

作者「山口誓子」の生涯を簡単にご紹介!

(山口誓子 出典:Wikipedia)

 

山口誓子(やまぐち せいし)は、大正から昭和、平成の初期にかけて活躍した俳人です。本名は新比古(ちかひこ)といいます。

 

明治34年(1901年)、京都府に生まれました。家庭環境は複雑で、幼少のころに祖父に引き取られます。母に死に分かれた後、祖父とともに樺太(からふと。現在のロシアのサハリン島。)に移り住み、数年を過ごしました。

 

樺太にいるころから句作もしていたようですが、俳句に本格的に取り組むようになったのは、帰郷して京都の学校に進み、大正9年(1920年)、京大三高俳句会に出席してからです。日野草城らに指導を受け、俳句雑誌「ホトトギス」へ俳句を投稿するようになります。

 

昭和の初期には、水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)、高野素十(たかのすじゅう)、阿波野青畝(あわのせいほ)らとともに、ホトトギス派の四Sと呼ばれ、ホトトギス派の黄金時代を作ります。昭和4(1929)ホトトギス同人となりました。

 

しかし、ホトトギス派率いる高浜虚子らと創作の方向性が少しずつ違ってきて、ホトトギス派から離れる道を選びます。少し前にホトトギス派から離れた水原秋桜子と合流し、ホトトギス派とはまた異なる新しい俳句を工夫していく運動を指導していく立場になりました。

 

戦争中には空襲により家や財産を失う目にあいながらも、戦後昭和23年(1948年)、俳句雑誌「天狼」の創刊に関わり、のち主宰もつとめました。

 

平成6(1994)92歳で亡くなりました。

 

山口誓子のそのほかの俳句

( 摂津峡にある句碑 出典:Wikipedia