【谺して山ほととぎすほしいまま】俳句の季語や意味・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

わずか17音で物語をつづる「俳句」は、今や日本を超え、世界中の人々から愛され、親しまれている文芸です。

 

今回は、大正から昭和にかけて活躍した杉田久女の作である「谺して山ほととぎすほしいまま」という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「谺して山ほととぎすほしいまま」の季語や意味・鑑賞・作者など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「谺して山ほととぎすほしいまま」の季語や意味・詠まれた背景

メジロ

(ホトトギス 出典:Wikipedia

 

谺して 山ほととぎす ほしいまま

(読み方:こだまして やまほととぎす ほしいまま)

 

この句は1931年に「杉田久女」41歳のときに詠んだもので、高浜虚子選の「日本新名勝俳句」公募で特選・金賞を受賞した作品として知られています。

 

この句は「英彦山六句」中の一句で、透き通るほととぎすの鳴き声が、英彦山にこだましている姿がのびのびと描写されています。

 

季語

こちらの句の季語は「山ほととぎす」(または単に「ほととぎす」)で、季節は「夏」を表します。

 

「山ほととぎす」は、文字通り、山に棲息するほととぎす、もしくは山から来るほととぎすを意味します。

 

ほととぎすは、古くから和歌の中で数多く詠まれてきた風物で、日本には初夏(5月上旬頃)に渡来することから、夏の到来を告げる鳥として親しまれてきました。

 

意味

この句を現代語訳すると・・・

 

「山々に声をこだまさせながら、ほととぎすが思うままに鳴いているよ」

 

という意味になります。

 

美しく、そして力強く鳴くほととぎすの声が、緑豊かな山々にこだましている様子が、見事に写生されている一句です。

 

この句が詠まれた背景

「谺して山ほととぎすほしいまま」という句は、久女が41歳のときに詠んだ句で、久女の円熟期の代表作の一つです。

 

この句は、夫の赴任先福岡で詠まれたもので、「山ほととぎす」の「山」は「英彦山(ひこさん)」だといわれています。

 

深緑の季節、久女は少し険しい谷伝いの山道を登り、この英彦山を訪れました。

 

そのとき、突然何ともいえぬ美しい響きをもった大きな声が、木立の向うの谷間から聞こえてきました。

 

単なる鳥の鳴き声を超えた神々しい響きに心を打たれた久女は、その後何度も英彦山を訪れ、その自然の中に身を置くことによって、ほととぎすの鳴き声の「真の写生」に成功したのではないかといわれています。

 

下五の結句「ほしいまま」という表現が得られたのは、こうした久女の執念であったといわれています。

 

「谺して山ほととぎすほしいまま」の鑑賞文

 

ほととぎすは、ほしいままに、谷から谷へと鳴いています。その姿は、実に自由で、その声は山々に高らかに谺しています。

 

そんなほととぎすの様子が、すがすがしく描かれ、深緑に覆われたの英彦山の山々にほととぎすの鳴き声が谺している情景が目に浮かぶようです。

 

しかし、一方、この時代は女性が自由に生きることが許されなかった時代です。

 

男性優位社会のこの時代、「女性はこうあるべきだ」という既成概念に支配され、女性がその枠を越えて「ほしいまま」に振舞うと、必ず厳しい制裁が待ち受けていたといわれています。

 

このような時代に生まれた久女は、ほととぎすという非常に小さな存在が、雄大な自然の中で声高らかに「ほしいまま」に鳴く姿をみて、女性の自由を心から願い、詠んだ、まさに時代を象徴した句となっています。

 

女性の自由を求めた久女の気持ちがにじみ出てきます。

 

作者「杉田久女」の生涯を簡単にご紹介!

杉田久女(1890年~1946年)は『ホトトギス』の黄金時代に活躍した俳人で、本名を杉田久(すぎたひさ)といいます。

 

 

鹿児島県鹿児島市に生まれ、父親の転勤に伴い、12歳になるまで沖縄県や台湾の各地を転々として暮らします。

 

久女は、次兄で俳人であった赤堀月蟾の影響を受け、20代半ばで俳句をはじめます。久女は27歳のときに初めて『ホトトギス』に出句し、この頃に高浜虚子に出会います。

 

「谺して山ほととぎすほしいまま」は、高浜虚子選の「日本新名勝俳句」公募で特選・金賞を受賞した句で、その後も次々と名句を残しました。

 

しかし、次第に虚子にうとまれはじめ、突如として『ホトトギス』を「除名」されます。女性の地位が今よりもずっと低かった時代に、このように才能ある女性が男性社会で台頭していくのは、本当に困難だったことが伺えます。

 

切望していた句集の出版はかなわず、1946年、久女は栄養障害に起因した腎臓病の悪化により享年56歳で亡くなりました。

 

師である虚子との確執など、久女の悲劇的な人生は近年見直され、小説の題材として取り上げられることも多い女流俳人です。

 

杉田久女のそのほかの俳句