【野に出れば人みなやさし桃の花】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

世界一短い定型詩と言われる日本の文学・俳句。

 

俳句は五七五の十七音の中に季節や心情を表現でき、誰でも気軽に詠むことができます。また、有名な句を鑑賞することで、様々な表現方法やその句にこめられた背景を読み取ることができるのです。

 

今回は、高野素十の有名な句の一つ「野に出れば人みなやさし桃の花」という句をご紹介します。

 


 

本記事では、「野に出れば人みなやさし桃の花」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「野に出れば人みなやさし桃の花」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

野に出れば 人みなやさし 桃の花

(読み方:のにでれば ひとみなやさし もものはな)

 

この句の作者は、「高野 素十(たかの すじゅう)」です。

 

高野素十は明治に生まれ、大正昭和時代に活躍した法医学者であり俳人です。

 

写生句の名人と呼ばれ、極限まで言葉を省く表現技巧を極めました。素十の句には、生への慈しみと科学者としての鋭い観察眼を感じられるものが多くあります。

 

季語

この句の季語は「桃の花」、季節は「春」です。

 

「桃の花」は中国が原産で、弥生時代に日本に渡来したと言われています。

 

また、「桃の花」は「桃源郷」(とうげんきょう)という「とても美しく、世俗を離れた理想郷」への世界も想像させる語としても、多々の文学で使われます。

 

ちなみに、「桃」のみでは「秋」の季語となります。春の句を詠う場合は、季語「桃の花」を用います。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「桃の花が咲く季節、野に出ると全ての人々がみな優しく笑っていることだ。」

 

という意味です。

 

「桃の花」は3月上旬から4月上旬に咲き、梅や桜とともに日本の春の代表的な花です。上巳の節句である33日の「雛祭り」は「桃の節句」とも呼ばれ、「桃の花」がかかせないものとなっています。

 

桃の花の色は、桃色・濃紺色・白色など様々で、枝が垂れるものなど品種も多くあります。桃の花の香りは、桜や梅に比べると強くはありませんが、花だけでなく葉からも優しい甘い香りがします。

 

春の日差しが暖かくなってきた頃に咲く桃の花は、のどかで優しい雰囲気を醸し出します。

 

この句が詠まれた背景

この句は、句集『初鴉(はつがらす)』に収録されています。

 

この句は、前書に「ハンドシュハイム行」とあり、昭和8年素十がドイツ留学中に詠んだ句です。

 

素十は昭和711月~から昭和912月まで、妻を東京に残し単身でドイツに留学しました。

 

この句は、素十がハンドシュハイム通りから少し外れた田園で、田舎の人と交流したことを詠っています。

 

素十は百姓の家に生まれたため、異国の地で田舎の人と話したことがとても嬉しかったのでしょう。とても明るい雰囲気の句です。

 

「野に出れば人みなやさし桃の花」の表現技法

体言止め「桃の花」

体言止めとは、名詞や代名詞などで俳句を終える技法のことです。

 

この句では、名詞「桃の花」で終わり、体言止めの技法を使っています。「体言止め」により、読み終えた後、余韻を残す効果を句にもたらしています。

 

句切れ

俳句における句切れとは、意味の切れ目のことで、「。」をつけられる場所のことを言います。

 

句切れでは、動詞や形容詞などの活用する語は、終止形や命令形となります。

 

この句は形容詞「やさし」の終止形で終わっているため、二句切れの句となっています。

 

「桃の花」の意味

「桃の花」は、「桃源郷」(とうげんきょう)をイメージさせる花です。

 

「桃源郷」とは、桃淵明『桃花源記』に描かれている理想郷のことです。桃の林に囲まれ、人々が平和に豊かに暮らすことができる、この世とは離れた別世界のことを意味します。「桃源郷」は、桃の優しい色あいと、ほのかに甘い香りに包まれた夢の境地で、仙郷とも言われます。

 

この句でも「桃の花」は、読み手に「桃源郷」のような理想郷を想像させる語として使われています。

 

「野に出れば人みなやさし桃の花」の鑑賞文

 

桃の花が咲くドイツの地は人々が皆優しく、まるで桃源郷のようだと作者は感じています。

 

あたたかく、春の日差しの中にいる人々は皆笑顔で過ごしているのです。

 

そこで作者が交流したのは、素十の生まれ育った家と同じ農家の老人でした。異国の地から来た作者に、老人は笑顔で優しく話しかけてくれ、作者はとても嬉しく感じたのでしょう。

 

家族を日本へ残し、単身で留学していた作者にとって、異国の人々の優しさは身に染みるものがありました。

 

普段の生活での悩み事も、桃の花の景色がやわらかく消してくれるような、優しい一句です。

 

作者「高野素十」の生涯を簡単にご紹介!

 

高野素十は、明治26年(1893年)茨城県北相馬郡山王村、農家の家で長男として生まれました。本名は、 與巳(よしみ)です。

 

大正2年(1913年)東京帝国大学医学部に入学。卒業後は、同大学の法医学に入局し、法医学や血清学を専攻しました。

 

その後、同じ教室だった水原秋桜子のすすめで俳句活動を始め、高浜虚子に師事。「ホトトギス」に参加します。素十は、虚子の「客観写生」を忠実に実践し虚子から信頼を得ました。

 

素十は、山口誓子、阿波野青畝、水原秋櫻子とともに「ホトトギス」の4Sと呼ばれ昭和初期の俳壇で活躍しました。

 

昭和7年(1932年)~昭和9年(1934年)血清学を学ぶため、家族を日本へ残し単身でドイツに留学。帰国後は、新潟医科大学で法医学教授に就任し、後に学長となりました。

 

法医学と血清学の研究を続けながら、多くの句を残し、昭和51年(1976年)83歳で、病のため亡くなりました。

 

素十の句は、言葉や文字の巧みな省略技法から、客観写生を超越した純客観写生と呼ばれています。

 

また、農家の血筋から、自然への観察眼も感じられる句を多く残しています。法医学を専門とした素十は、命への敬愛慈しみを大切にしており、自身の句にも表現しています。

 

作者の句集は、『初鴉』『雪片』『野花集』『素十全集』などがあります。

 

高野素十のそのほかの俳句