【草の戸も住み替はる代ぞ雛の家】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

五・七・五のわずか十七音に心情や風景を詠みこむ「俳句」。

 

詠み手の心情や背景に思いをはせて、いろいろと想像してみることも俳句の楽しみのひとつかもしれません。

 

今回は、有名俳句の一つ「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家」という句を紹介していきます。

 

 

本記事では、「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきます。

 

俳句仙人

ぜひ参考にしてみてください。

 

「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家

(読み方:くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ

 

この句の作者は「松尾芭蕉」です。

 

江戸時代のはじめ、俳句は和歌などと比べると品がなく劣っているという印象がありました。松尾芭蕉はそういった俳句の印象を和歌と並ぶ芸術へと高めた日本史上最高の俳諧師の一人です。

 

ちなみに芭蕉という名前は、本名ではなく俳号です。俳号とは俳句の詠み手の雅号、いわゆる愛称です。

 

芭蕉の俳号は、自分の住んでいた芭蕉庵(植物のバショウの生えている小屋)が由来となっています。

 

 

季語

この句の季語は「雛」、季節は「春」です。

 

雛(ひな)というと、鳥のヒナを思い浮かべますが、そうではありません。

 

桃の節句(ひな祭り)に飾られるひな人形をさします。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「住み慣れてきたこのみすぼらしい草庵も、住み替わるべき時がきた。誰かあとで引っ越してくる人が、おひなさまを飾って華やかになることがあるだろう。 」

 

という意味です。

 

草の戸というのは、草ぶきの(草木や竹などを材料としてつくった質素な小屋)の戸という意味です。

 

自分の住んでいた場所を謙遜してそのような表現をする場合もありますが、質素なみすぼらしい小屋だと言っていることになります。

 

また、代(よ)には時代、一生などの意味もありますが、ここでは時期・時節を表します。

 

この句が詠まれた背景

芭蕉は、40代の頃から旅に出ては庵に戻り俳句を詠む日々を過ごしていました。

 

暖かくなったら東北へ旅に出たい、とまだ見たことのない松島や象潟(きさかた)の風景を想像して旅への思いを募らせていました。

 

1689年、芭蕉は新たな旅に出発する決意をします。

 

この東北への旅が「おくのほそ道」にあたります。旅の始まりは旧暦326日と決め、二月末には住んでいた芭蕉庵を売り、この旅の費用にあてました。

 

「おくのほそ道」には「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 表八句を庵の柱に懸けおく。」と書いてあります。

 

草の戸も~から始まる表八句を庵の柱にかけておいた、という意味です。

 

五・七・五の長句と七・七の短句をつないで、他の数人と合作でつないで百句にしていく、連句百韻(れんくひゃくいん)という俳句のやり方がありました。

 

その第1ページ目(表とよびます)に書くことが決まりになっている句の数が、八句というルールでした。

 

芭蕉が移転したことを知らない誰かが訪ねてきても、「このはじめの八句を柱にかけておきますから、この後を続けて詠んでほしい」という旅立ちのあいさつのかわりの句でもあったのです。

 

 

「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家」の表現技法

「住み替はる代ぞ」の「ぞ」の切れ字

切れ字は「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときに使います。

 

この句は「住み替はる代ぞ」の「ぞ」が切れ字にあたります。

 

俳句の切れは、文章だと句読点で句切りのつく部分にあたります。

 

意味深い節目となり、この場合は「住み替わる時節が来たなあ」と芭蕉の感慨にふける様子が強調されます。

 

また、五・七・五の五(初句)の次の七、つまり二句に句の切れ目があることから、二句切れとなります。

 

「雛の家」の体言止め

体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める表現技法です。

 

美しさや感動を強調する・読んだ人を引き付ける効果があります。

 

ひな人形を飾って華やかになるのだなぁ、と芭蕉が感慨にふける様子が浮かびます。         

 

「草の戸」と「雛の家」との対比表現

「草の戸」という言葉からは、みすぼらしい、さみしい、わびしいなどの印象を受けます。

 

一方、「雛の家」からは、ひな人形を飾っている華やかな印象を受けます。また、ひな人形を飾っている家には、女の子のためにひな人形を飾っている温かな家族の様子が想像できます。

 

さみしさと温かさ、みすぼらしさと華やかさ。

 

住む人(住むであろう人)の印象が対比され、雰囲気が際立っています。

 

「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家」の鑑賞文

 

芭蕉が住んでいた芭蕉庵は、東京都江東区の深川、隅田川のほとりにありました。

 

この時、芭蕉は俳句の流派の第一人者として全国的にも名が知られ、江戸の市中で気楽な生活を送ることも出来ました。

 

しかし、あえて市中より離れた土地のみすぼらしいところに住んでいたのです。

 

心をとぎすまし、いつでも俳句に向き合えるよう、あえてストイックな生活をしていたのかもしれません。

 

旅に出ることも、楽しみであると同時に不便な旅をあえて選ぶ芭蕉の覚悟が感じられます。

 

松尾芭蕉は46歳にて、「おくのほそ道」の旅へと出かけましたが、当時は人生50年といわれるほど、平均寿命がそれほど長くはありませんでした。

 

芭蕉からしてみれば、人生最後の旅になるかもしれない、そういった思いで住み慣れた芭蕉庵を売り払ったのかもしれません。

 

もうすぐひな人形を飾る季節が訪れ、四季が移り変わっていくように、この草庵にも誰か別の人が住み、また変化していくことだという芭蕉の人生へのまなざしも感じられます。

 

「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家」の補足情報

句の初稿は「住み替はる代や」

この句は当初「住み替はる代や」と詠まれていました。

 

詠嘆の「や」ではなく、断定の「ぞ」としたのは、実際に住んでいた草庵が華やかになったのを見たからかもしれません。

 

芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出る前に、よく世話をしてくれる杉風の別宅に居を移しているため、様子を見に行った時に「住んでいる人が変わったのだ」と実感したのでしょう。

 

初稿の句を記した書簡には・・・

 

「衣更着(きさらぎ)末草庵を人にゆづる。此人なん妻をぐし、むすめをもたりければ、草庵のかはれるやうおかしくて」

(訳:2月の末に草庵を人に譲る。この人は妻を伴い、娘もいるので、草庵が様変わりしている様子が興味深くて)

 

と書かれています。

 

江戸時代初期の雛人形について

現在の私たちが想像する雛人形というと、立派な十二単や束帯を着て、三人官女や五人囃子などを引き連れた数段重ねの豪華なものでしょう。

 

しかし、これらの華やかな雛人形は江戸時代後期の18世紀に「古今雛」として作られたもののため、江戸時代初期の芭蕉が思い描いたものとは全く違うものです。

 

江戸時代よりも前にあったとされるのは、立った姿の男女の人形である「立雛(たちびな)」です。

 

 

女雛は普段着でもある小袖を、男雛は袴を来ていて、男雛が腕を広げているのが特徴的な雛人形になっています。

 

頭部は丸く作られていますが、体は平らに作られています。そのため自立することはできず、屏風などに立てかけていました。

 

現在の雛人形のように座った姿は「座雛(すわりびな)」と呼ばれ、17世紀前半の寛永期に出現したことから「寛永雛」と呼ばれています。大きさは9cmほどと小型ですが男女どちらも座っていて、来ている着物も十二単や束帯に近いものになりました。

 

現在の雛人形に最も近いものが最初に出現するのが、17世紀後半の元禄期に出現した「元禄雛」です。大きさは45cmほどとなり、華やかな十二単や束帯、飾りを多用するようになりました。

 

現在の雛人形と同じように女雛は檜扇を持ち、男雛は尺を持っています。この頃はまだ雛飾りといえば一段か二段ほどのものだったようです。

 

芭蕉は元禄7年に亡くなっているので、見かけていたとすると、立雛・寛永雛・元禄雛のいずれかでしょう。

 

この句とともに譲った芭蕉庵は、江戸の市街地から離れた深川の地に建っていました。

 

四畳半の部屋と三畳の台所のみで構成されていて、土壁と茅葺きという質素な草庵です。

 

俳句仙人

芭蕉は豪華になった寛永雛や元禄雛ではなく、昔ながらの素朴な立雛を想像しながらこの句を詠んだのかもしれませんね。

 

作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!

(松尾芭像 出典:Wikipedia)

 

松尾芭蕉は1644年伊賀国上野、現在の三重県伊賀市に生まれました。

 

本名は松尾忠右衛門、のち宗房(むねふさ)といいます。

 

13歳のときに父親を亡くし、藤堂家に仕え10代後半の頃から京都の北村季吟に弟子入りし俳諧を始めました。

 

俳人として一生を過ごすことを決意した芭蕉は、28歳になる頃には北村季吟より卒業を意味する俳諧作法書「俳諧埋木」を伝授されます。

 

若手俳人として頭角をあらわした芭蕉は、江戸へと下りさらに修行を積みました。40歳を過ぎる頃には日本各地を旅するようになり、行く先々で俳句を残しています。

 

46歳の時に弟子の河合曾良(そら)を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国大垣までを巡った旅を記した紀行文『奥のほそ道』が特に有名です。

 

150日間で行程2400㎞を旅したことや、生まれが伊賀であったことから、忍者ではなかったかという説が出たこともあります。

 

芭蕉は「奥のほそ道」の旅から戻り、大津、京都、故郷の伊賀上野などあちこちに住みました。

 

そして1694年、旅の途中大阪にて体調を崩し51歳にて死去しました。

 

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia