五七五のわずか17音の芸術、「俳句」。
日本が誇る伝統芸能の一つです。
今回は、数ある名句の中から中村草田男の「葡萄食ふ一語一語の如くにて」という句をご紹介します。
葡萄食ふ 一語一語の 如くにて
中学生のとき、教科書に載ってた俳句。この句だけは何となく好きで、今も覚えてる。 pic.twitter.com/yrJ8QHb5Bw
— siratuti (@chaicurry) September 20, 2016
本記事では、「葡萄食ふ一語一語の如くにて」の季語や意味・表現技法・鑑賞などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてくださいね。
目次
「葡萄食ふ一語一語の如くにて」の季語や意味・詠まれた背景
葡萄食ふ 一語一語の 如くにて
(読み方:ぶどうくふ いちごいちごの ごとくにて)
この句は「中村草田男」が詠んだもので、昭和22年(1947年)に出版された句集『銀河依然』に収録されています。
季語
こちらの句の季語は「葡萄」、季節は「秋」を表します。
葡萄の実は8月から10月にかけて熟すことから、古くから秋を表す季語として使われています。
(※ちなみに、甲州葡萄、巨峰、マスカット、葡萄園、デラウェア、黒葡萄、葡萄棚も秋の季語になります)
意味
この句を現代語訳すると・・・
「葡萄の実を一粒ずつ食べる。言葉を一語一語味わい、かみ締めるように。」
という意味になります。
ご存知の通り、葡萄は房から一粒一粒手でちぎって食べます。その食べる様子を、一語一語語り掛けているように、よく噛み締めて食べているのです。
この句が詠まれた背景
この句は中村草田男が46歳のときに発刊した句集『銀河依然』の中に収録されています。
中村草田男は、自己の内面を日常生活の情景を通して詠もうとする「人間探求派」の俳人と呼ばれています。
人や動植物を題材にした俳句を詠むことが多く、この句は葡萄の実一粒一粒を取り上げた草田男らしい一句といえます。
「葡萄食ふ一語一語の如くにて」の表現技法
この句で使われている表現技法は・・・
- 倒置法
- 暗喩
になります。
倒置法
「倒置法」とは、語や文節を普通の順序と逆にして語勢を強めたり、語調を整える技法です。
「倒置法」そのものは、俳句だけに使われる技法ではありません。
この句では、本来の順序であれば末尾に来る「葡萄食ふ」という言葉を最初に持ってきています。
こうすることで、葡萄を一粒ずつ味わって食べていることを強調しています。
比喩
暗喩とは、比喩・たとえの表現のひとつです。
暗喩は「~のような」「~のごとし」などのような言葉を使わず、たとえるものを直接結びつけ、言い切るように表現する技法です。
一方、暗喩に対して、「~のような」、「~のごとし」といった比喩であることが分かるような言葉を使ったたとえの表現は直喩といいます。
(※例を挙げると、「彼女の笑顔はひまわりの花のようだ。」という表現は直喩、「彼女の笑顔はひまわりの花だ。」という表現は暗喩です)
この句では、葡萄を一粒ずつもぎ取って食べる単純な動作を「一語一語の如くにて」と、言葉の一語一語を吟味しながら読んだり書いたりする行為にたとえています。
葡萄の一粒一粒の豊潤さを表現すると同時に、言葉の大切さを説いています。
「葡萄」と「言葉」のように全く関係のないもの同士を「たとえ」ることで、互いに響き合いイメージを作り出す効果があります。
「葡萄食ふ一語一語の如くにて」の鑑賞文
この句は、言葉を一語一語味わい、かみ締めるかのように、葡萄の実を一粒づつ食べる様子を詠んでいます。
何の変哲もない葡萄の粒は、ゆっくりと味わって食べることで甘さや酸味、口いっぱいに広がる豊潤な香りなど、さまざまな感覚を感じさせてくれます。
そこには、普段何気なく使っている言葉の一つ一つにも同じことがいえるのではないかという作者の言葉に対する深い想いを感じ取ることができます。
葡萄を単なる食べ物としてではなく、普段何気なく使っている言葉を一語一語吟味しながら文章を推敲する様にたとえているところが面白い一句です。
作者「中村草田男」の生涯を簡単にご紹介!
中村草田男(1901年~1983年)は中国アモイ出身の俳人で、本名を清一郎(せいいちろう)といいます。
中村草田男の髪型見ると何故かこの食品サンプルを思い出してしまうんだよ。 pic.twitter.com/DvJCMkassb
— やっさんブル(川村ゆきえさん結婚おめでとう) (@atataka_yassy) November 29, 2015
清国領事中村修の長男として清国(現中国)福建省廈門に生まれた草田男は、3歳の頃に母とともに本籍地であった愛媛県伊予郡松前町に帰国しました。その後1908年に一家で東京に移り住むことになります。
20代後半になって本格的に句作をはじめた草田男は28歳の頃に高浜虚子と出会い、その後、水原秋桜子の指導を受けることとなります。
草田男は俳句雑誌『ホトトギス』で客観写生を学びつつ、ニーチェなどの西洋思想からの影響も受け、生活や人間性に根ざした句を模索するようになります。石田波郷や加藤楸邨らとともに「人間探求派」と呼ばれるようになりました。
1983年8月5日、急性肺炎のため82歳で亡くなり、翌年1984年に日本芸術院恩賜賞が贈られました。
中村草田男のそのほかの俳句
- 蟾蜍(ひきがえる) 長子家去る 由もなし
- 冬の水 一枝の影も 欺かず
- 万緑(ばんりょく)の 中や吾子の 歯生え初むる
- 勇気こそ 地の塩なれや 梅真白
- はまなすや 今も沖には 未来あり
- 降る雪や 明治は遠く なりにけり