【ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに】俳句の季語や意味・表現技法や鑑賞などを徹底解説!!

 

俳句には、夢ともうつつとも判別しかねる、作者独自の世界観を表現できる楽しみもあります。

 

今回ご紹介する「ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに」も、牡丹が咲き乱れる様子が見事に表現されている作品です。

 

 

本記事では、「ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに」の俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者について解説させていただきます。

 

「ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに」の俳句の季語・意味・詠まれた背景

 

ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに

(読み方 : ぼうたんの ひゃくのゆるるは ゆのように)

 

この俳句の作者は「森 澄雄(もり すみお)」です。

 

森澄雄は昭和から平成にかけて、数多くの作品を残した俳人のひとりです。「人間探求派」の強い影響を受けた澄雄は、夫婦の絆や日常の情景を題材にして句作しました。読売俳壇選者を37年に亘って務めており、俳句評論家としても著名な人物です。

 

季語

この句の季語は「ぼうたん」、季節は「夏」です。

 

「ぼうたん」は「牡丹」のこと。厳格には、俳句の世界では夏は「初夏」「仲夏」「晩夏」に区分されており、これらを総称して「三夏」と言います。ぼたんは本格的な夏を迎える前に大輪の花を咲かせる植物なため、「初夏」を表現する季語に属します。

 

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「百にも及ぶであろう、ぼたんの群れが湯けむりのように風に揺られている」

 

という意味になります。

 

この句を理解するためには、どのようにぼたんが咲いているのかをイメージしなくてはなりません。

 

この句で表現されている「湯のように」とは、お湯から立ち上がる「湯気」を指しています。そして、湯気は白いので、「白いぼたんの花」を詠んだ句であると推測できます。

 

つまり、白いボタンの花が風にユラユラとなびいて美しく咲く情景を詠んだ作品です。

 

この句が詠まれた時代背景

 

この句がいつ詠まれた作品であるか、詳しい年月日については不明です。

 

森澄雄は高等学校在学中に、父の影響を受けて俳句を学びはじめ、1940年以降からは俳人として本格的に活躍しはじめます。1940年代といえば、戦後復興の最中であり、ようやく人々が戦火から逃れて、平和な暮らしを取り戻した時代です。

 

そのような時代背景を考えると、この句は戦争が終わった後の何気ない日常生活の中で詠まれた作品であると推察できます。

 

澄雄の作品は、日常生活のなかで遭遇した風景や、家族との繋がりをテーマにした人間味溢れる作風が特徴的です。

 

一方で、「人間探求派」の加藤楸邨の影響を強く受けた俳人です。「ぼうたんの百のゆるるは湯のように」については、巧みな比喩法が使われており、澄雄の作風らしい温かみが感じられます。

 

「ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに」の表現技法

比喩(暗喩法)

この句では「湯のように」の部分に、比喩の技法が使われています。

 

比喩を取り入れることで、ぼたんの花がどのように咲いているかを物事(湯のように)に例えて表現しています。

 

俳句のなかで引用される比喩とは、題材である事情がどのような状態であるかを説明するために用いられます。「〜ごとし」「〜ごように」「たとえば〜」などと句中に記載されている箇所が、比喩に該当します。

 

「湯のように」という比喩を使うことによって、牡丹の白さが浮き立ちます。

 

「ウ」音の反復

この句では、上句「ぼうたん」の「う」、中句「百のゆるるは」の「ゆるる」、下句「湯けむり」の「湯」の部分で、母音「ウ」が使われています。

 

このように「ウ」音を繰り返すことで、ゆったりとした余韻が感じられます。

 

また、あえて「ぼたん」を「ぼうたん」と表記することで、ぼたんの花のはかなく優しい雰囲気を表現しています。

 

「ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに」の鑑賞文

 

この句を読解するポイントは、比喩が使われている「湯のように」の部分です。

 

より詳しく説明しますと、この句では「湯のように咲いている」または「湯のように咲き乱れている」の「咲いている」「咲き乱れている」の部分が省力されています。

 

また、句中にある「百」は、花の本数を表しているのではなく、お花畑のような視覚的な広さを表現している言葉です。そして、「湯のように」という表現から「湯気=白」なので、白いぼたんの花であると推察できます。

 

全体を通して作品を鑑賞すると、「白いぼたんの花の群れがあたり一面に咲き乱れていて、風が吹くとまるで湯けむりのように揺れているよ」という意味に読み取れるでしょう。

 

作者「森澄雄」の生涯を簡単にご紹介!

 

森澄雄は1919年(大正18年)に、現在の兵庫県姫路市に生まれました。

 

5歳からは故郷を離れて長崎で暮らします。歯科医師であった父が俳人であった影響を受け、澄雄は市内の高等学校在学中に「緑風会」に入会して、野崎比古教授から指導を受けました。

 

さらに、句会「馬酔木」に参加し、今後の句作で強い影響を受ける加藤楸邨(かとう しゅうそん)に出会います。21歳になった澄雄は、楸邨が主催する俳句誌「寒雷」の創刊に参加して、本格的に加藤楸邨に師事しました。

 

その後も、句集や句誌の刊行と俳人として活躍しますが、1995年に脳溢血で倒れて左半身に麻痺が残ってしまいます。しかし、そのような不自由な体になっても、澄雄は読売俳壇選者を37年にも亘って務めるなど、俳人として活躍の幅を広げていったそうです。

 

「人間探求派」を確立した師匠楸邨の志を継承し、家族に対する愛情や日常生活の風景をテーマに句作、また、地名をテーマに詠んだ作品も数多く残しており、91歳にこの世を去るまで俳人として活躍し続けました。

 

森澄雄のそのほかの俳句

 

  • 鳴門見て讃岐麦秋渦をなす
  • 雪国に子を生んでこの深まなざし
  • 除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり
  • 白をもて一つ年とる浮鷗
  • ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに
  • 西国の畦曼珠沙華曼珠沙華
  • 億年のなかの今生実南天
  • 木の実のごとき臍もちき死なしめき