日本は諸外国に比べて、四季の移り変わりがはっきりと感じられる風土です。
今回は、夏から秋への季節の移り変わりを詠んだ句「もの置けばそこに生まれぬ秋の蔭」をご紹介します。
もの置けば
そこに生まれぬ
秋の蔭 高浜虚子 pic.twitter.com/2y5vpSN4qt
— 桃花 笑子 (@nanohanasakiko) September 2, 2014
本記事では、「もの置けばそこに生まれぬ秋の蔭」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてください。
目次
「もの置けばそこに生まれぬ秋の蔭」の俳句の季語・意味・詠まれた背景
もの置けばそこに生まれぬ秋の蔭
(読み方: ものおけば そこにうまれぬ あきのかげ)
この俳句の作者は「高浜虚子(たかはま きょし)」です。
高浜虚子は明治時代から昭和時代にかけて、俳人そして小説家として活躍した人物です。
正岡子規に師事した虚子は、その一生を終えるまで忠実に子規の教えを貫き、自由律俳句を擁護する活動が高まりを見せるなかで、伝統俳句を守り続けました。虚子の句風は「花鳥風体」と呼ばれており、写実的な表現を用いた句が特徴です。
この句は「秋の蔭」を題材にしており、夏から秋へと季節が切り替わろうとしている「秋の気配」を詠んだ作品です。
季語
この句の季語は「秋の蔭」であるため、季節は「秋」になります。
「秋の蔭」は、秋の景色や風景を表現する言葉です。また、「秋陰(しゅういん)」という季語もありますが、こちらは「秋の曇り空」を表す言葉であるため、「秋の蔭」とは意味が異なります。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「ものを置くと、蔭が生まれる。その蔭に秋の気配が感じられる。」
という意味です。
四季を通して、もっとも太陽の高さが高い夏は、春・秋・冬に比べて陰が短く、出来づらくなります。つまり、太陽の位置が夏より低くなる秋のほうが、陰ができやすくなるわけです。
虚子はものを置いた時にできる陰の様子から、秋がもう来ていると秋の気配を感じ取ったのでしょう。
このように虚子の句は、写実的な文章表現が使われているため、絵画や写真を鑑賞しているかのような感覚で作品に親しめます。
この句が詠まれた時代背景
この句は句集「五百五十句」に収録されており、昭和13年(1938年)虚子が64才の時に詠んだ句とされています。
「五百五十句」は1943年(昭和18年)に『ホトトギス』550号刊行の記念として創刊された句集です。明治・大正・昭和と年号が変わるなかで、虚子がつくった俳句が「五百五十句」に収められています。
当時は時代の移り変わりによって、俳句の世界においても「自由律俳句」を擁護する俳人が増えました。しかし、虚子は時代や人の考えに流されずに、伝統俳句を愛し守り続けました。
そして伝統俳句の技法を取り入れながら、独自に「花鳥風体」と「客観写生」の句風を確立した俳人です。
「もの置けばそこに生まれぬ秋の蔭」の表現技法
体言止め
体言止めとは文末を名詞で括る表現技法で、文章にリズムを整える効果があります。
この句では下句「秋の風」の部分に、体言止めが使用されています。あえて文末に名詞を設定することで、歯切れが良くなり、読み手の共感を得やすくさせています。
「もの置けばそこに生まれぬ秋の蔭」の鑑賞文
この句のポイントは、秋の景色を表現する「秋の蔭(初秋の季語)」です。
この句が詠まれ時、すでに夏も終わろうとしていますが、まだまだ残暑が厳しく日差しは激しいままです。しかし、何気なく物を置いたところに、夏の頃よりもはっきりとした長い陰が生まれています。
この日差しと蔭とのコントラストは、他の季節の「蔭」では生じない。逆に言えば、このコントラストこそ「秋の蔭」に置き換えのできない確かさを与えており、作品の季感が初秋でなければならない理由となっています。
読み手が季節の移り変わりを自分の目で見ているかのように表現されており、虚子らしい写実的な要素が取り入れられた作品であると言えるでしょう。
作者「高浜虚子」の生涯を簡単にご紹介!
(高浜虚子 出典:Wikipedia)
高浜虚子は、1874年2月22日に愛知県松山市に生まれました。本名は「高浜清(たかはま きよし)」と言います。
虚子は中学時代から交流のあった正岡子規に、友人でありライバルの河東碧梧桐とともに師事します。そのような縁があり、子規は清に「虚子」の配合を与えたと言われています。
虚子と碧梧桐はともに京都の高等学校に進学しますが、後に仙台の学校に転入。ところが、文学を仕事にしたいと考えていた2人は学校を途中で退学し、東京の子規の家で居候生活が始まりました。
ちょうど時代は日清戦争の頃でしたので、子規は戦地に召集。その後、子規は生還はしますが、体調を壊して結核を患ってしまいます。そのような経緯もあり、虚子は子規が編集を担当していた『ホトトギス』を受け継ぎます。
一方の、碧梧桐は子規から『新聞日本』を引き継ぎますが、次第に2人は対立。その裏には、虚子が碧梧桐の婚約者であった女性と結婚したなど、プライベートな事情も絡んでいたと言われています。
子規の死後、虚子は句作することをやめて、小説家として積極的に活動し、『ホトトギス』も小説色の強い雑誌にと変わっていきます。しかし、1912年に碧梧桐が擁護する「自由律俳句」に対抗するかのように、虚子は再び俳壇に戻り、伝統俳句を広める活動を推進しました。
まるで絵画や写真を鑑賞して作られた作品であったことから、虚子の句風は「客観写生」「花鳥風体」と呼ばれています。虚子の伝統俳句を守りたいという想いが文学界で高く評価された結果、文化勲章が授与されました。
しかし、文化勲章を受賞した翌年の1959年に、残念ながら89歳でこの世を去っています。
虚子は生涯で20万句を超える作品を残しており、現在活字化されている俳句はそのうちのわずか2万2千句ほどです。虚子は師匠である子規の死後も、伝統俳句の「五七五」の技法を引き継ぎ、後世の文学界に大きな功績をもたらしました。
(虚子の句碑 出典:Wikipedia)