今回は、うららかな春の景色をテーマに詠まれた高浜虚子の句「春の浜大いなる輪が画いてある」をご紹介します。
本記事では、「春の浜大いなる輪が画いてある」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてください。
目次
「春の浜大いなる輪が画いてある」の俳句の季語・意味・詠まれた背景
春の浜大いなる輪が画いてある
(読み方: はるのはま おおいなるわが えがいてある)
この俳句の作者は「高浜虚子(たかはま きょし)」です。
高浜虚子は明治から昭和に亘って俳人として、また時には小説家として活躍しました。俳句の題材を絵画的な視点で捉えて、写実的な文章表現を好んだ俳人です。
俳諧誌『ホトトギス』の編集にたずわり、師匠の子規が亡くなったあともその教えを忠実に守って「花鳥風体」と呼ばれる句風を確立しました。この句は春の海岸を題材にしており、静かな砂浜や穏やかに波が打ち寄せる様子が文章で表現されている作品です。
季語
この句の季語は「春の浜」であるため、季節は「春」になります。
こちらの季語は、長かった冬が終わって、明るくのどかな春を迎えた浜辺の様子を表現しています。
静かな浜辺の様子だけでなく、海が陽の光を受けてキラキラときらめいている様子が伝わってきます。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「春の浜に大きな輪が描いてあるよ。」
という意味です。
この句は、春が訪れた砂浜に、誰かが描いた大きな輪が残されている様子を詠んでいます。のどかな浜辺の様子が思い浮かび、穏やかな海の景色が伝わってきます。
虚子の俳句は、まるで絵や写真を鑑賞しているかのような文章表現が多く、読み手の印象に残りやすい作品と言えます。
この句が詠まれた時代背景
この句は昭和7年5月9日笹島会で詠まれた作品であり、『五百句』に収録されています。
『五百句』とは、俳諧誌『ホトトギス』500号記念を祝って、1937年(昭和12年)に刊行された句集です。虚子が明治から昭和の3代に亘って詠んだ作品が収録されており、伝統俳句の技法を貫いてきた行程がわかります。
俳句は昭和時代に入ると、五七五の定型にとらわれずに、自由に句作する新興俳句を支持する流派の勢いが強まりました。
しかし、そのような時勢の流れに負けずに、虚子は正岡子規から引き継いだ伝統俳句の技法を守り、句作に励んでいたのです。
この句は伝統俳句の教えを忠実に守りながら、虚子らしい絵画的な要素が含まれています。
「春の浜大いなる輪が画いてある」の表現技法
句切れ
句切れとは、意味やリズムの切れ目のことです。
句切れは「や」「かな」「けり」などの切れ字や言い切りの表現が含まれる句で、どこになるかが決まります。
この句の場合、初句(五・七・五の最初の五)に、「春の浜」の名詞で区切ることができるため、初句切れの句となります。
連帯詞を使用した表現
この句は中句「大いなる輪が」の部分に、意図的に連帯詞「大いなる」が使われています。
口語表現の「大きな輪が」を用いても、十分に意味が通用するように感じられます。しかし、「大いなる」と表現することで、その輪がいかに大きなものであるかがより詳しく読み手に伝わってきます。また、とても広い浜辺であることも読み取れるでしょう。
口語体を文語体に入れ替えたり、逆に文語体を話し言葉に置き換えたりして、作品の印象を大きく変えられることも俳句の面白さです。
「春の浜大いなる輪が画いてある」の鑑賞文
この句を解釈するポイントは「大いなる輪」です。
虚子がある日、春の浜辺を訪れると、誰かがいたずら書きした大きな円が波に打ち消されることなく、くっきりと残っています。ゆったりとした時間が流れる、おだやかな春の浜辺の様子を読み手に伝えている作品です。
虚子は浜辺を眺めながら、寒い冬が終わり、ようやく待ちに待った春がやってきたと感じているのかもしれません。そして、どこまでも広い浜辺に対して、どんなに大きな円を描いても小さな輪に過ぎないと感じたのでしょう。
雄大な自然の様子が表現されており、絵画的な文章表現を得意とした虚子らしい作品です。
作者「高浜虚子」の生涯を簡単にご紹介!
(高浜虚子 出典:Wikipedia)
高浜虚子は、1874年2月22日に現在の愛知県松山市に誕生しました。本名は高浜清(たかはま きよし)で、虚子は師匠正岡子規から直々に授けられた俳号です。
虚子はともに子規の弟子としなる、河東碧梧桐と中学時代を過ごしました。ほどなくして、二人は師匠となる正岡子規に出会い門弟になりました。
子規を頼って碧梧桐とともに上京した虚子は、文学の道を志して修行に励みます。当時の虚子は、放蕩生活を送っており、京都大学から転入した東北大学を途中退学して、上京したと言われています。
そんな虚子も1897年に結婚し、2年後には新聞社に入社しますが、プライベートな事情から除籍されてしまいました。
生活に困窮している弟子を見て師匠子規が手を差し伸べて、子規が後見人となり、虚子は『ホトトギス』の編集の仕事にたずさわります。和歌や散文も掲載した『ホトトギス』に、夏目漱石も寄稿したとの記載があります。
1902年(昭和35年)に子規が亡くなったのを契機に、虚子は俳人として活躍することを辞めて、小説家一本で生計を立てたそうです。しかし、仲が良かった碧梧桐が師匠子規を裏切り、新興俳句に傾倒したことを知った虚子は、対抗するかの如く俳壇に復活し、伝統俳句の尊さを訴えます。
そのような活動が多くの文学者に認められて、虚子は1937年(昭和12年)に日本作家俳句会長に就任しました。
1954年(昭和29年)には文学賞を受賞しますが、1959年(昭和34年)に脳溢血のために85歳で亡くなっています。
虚子は子規に弟子入りしてから亡くなるまで、伝統俳句の技法を貫き、新興俳句に対抗した人物です。また、景色を絵画のように表現する技法を確立した俳人です。生涯に20万に及ぶ俳句を詠んだと言われており、約2万2千の句が活字化されています。
虚子の生涯については、小諸高浜虚子記念館、虚子記念文学館で学べます。
高浜虚子のそのほかの俳句
(虚子の句碑 出典:Wikipedia)