【岩に爪たてて空蝉泥まみれ】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

先人達が残した俳句のなかには、「命」や「生」をテーマに詠まれた句も数多く残されています。

 

今回は小さな蝉の命を題材にしている西東三鬼の句「岩に爪たてて空蝉泥まみれ」という句をご紹介します。

 

 

当記事では、「岩に爪たてて空蝉泥まみれ」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきます。ぜひ参考にしてみてください。

 

「岩に爪たてて空蝉泥まみれ」の俳句の季語・意味・詠まれた背景

 

岩に爪 たてて空蝉 泥まみれ

(読み方:いわにつめ たててうつせみ どろまみれ)

 

この俳句の作者は「西東三鬼(さいとう さんき)」です。

 

西東三鬼は歯科医師として勤める傍らで、句作に励んだ新興俳句を代表する俳人のひとりです。新興俳句の強い影響を受けた西東三鬼の作品は、伝統俳句とはかけ離れたモダンな感性が特徴的です。

 

 

季語

この句の季語は「空蝉」になるため、季節は「夏」です。

 

空蝉とは蝉が脱皮した時に残る抜け殻を指しており、「うつせみ」と読みます。

 

元々は、空蝉はこの世に生きる生身の人間を表現する言葉です。しかし、「空つ身」という意味合いで使用される機会が多くなり、その結果として現在のように、魂が抜けた殻という意味で用いられるようになりました。

 

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「岩に爪を立てた状態で残っている蝉の抜け殻が泥まみれである。」

 

という意味です。

 

この句を解釈するためには、蝉の生涯がどのような過程を踏むのか、抑えておかなければなりません。なぜなら、どうして蝉の抜け殻が泥まみれになっているかを理解するうえで、蝉の生態系を理解する必要があるからです。

 

そこで、簡単に蝉の生態についてお話します。

 

【メモ】蝉の一生

蝉はメスが8月に、木の裂け目にたまごを産み落とし、そのまま寒さが厳しい冬を越します。越冬を無事に乗り越えたセミのたまごは、6月に孵化して成虫となりますが、その後地面に潜り5年の歳月を経て育ちます。長い時をようやく超えたセミは、土から這い出て木を登り、羽化の準備をおこない成虫になります。しかし、その寿命はわずか2、3週間に過ぎません。

 

この句は、成虫になるために必死に木にしがみついて、羽化しているセミの「力強い生命力」と「命のはかなさ」2つを詠んだ作品です。

 

この句が詠まれた時代背景

 

この句がいつ詠まれた作品であるか、詳しい年月日については不明です。

 

西東三鬼は患者の勧めによって、1933年(昭和8年)に俳句をはじめました。

 

やがて世界情勢は緊迫したものとなり、第二次世界大戦に至りますが、病弱であった三鬼は出兵を免れます。一時期は結核の病巣が腰椎に転移して腰部カリエスを発症し、危篤に陥った時もありました。

 

三鬼自身は戦場には出向きませんでしたが、戦争の暗い影と自分自身の病気などから、命と死を身近に感じていたのでしょう。

 

そのような時代背景のなかで、三鬼がセミという小さな昆虫の命をテーマに詠んだ作品が、「岩に爪たてて空蝉泥まみれ」です。

 

「岩に爪たてて空蝉泥まみれ」の表現技法

擬人法

擬人法とは、昆虫や動物をあたかも人間であるかのように表現する技法です。

 

この句の「爪たてて」の部分に「擬人法」が使われています。蝉を人間であるかのように「爪たてて」と表現することで、小さい命でありながら生命力の強さが感じ取れます。

 

体言止め

体言止めとは、文末を名詞または代名詞で結ぶ使用頻度の高い技法のひとつです。

 

この技法を使用すると、強調したい箇所が明確になるので、作者が読者に伝えたいことがはっきりします。文章にまとまりも生まれて、余韻を残したい箇所に体言止めを使用すると効果的です。

 

今回の句は「泥まみれ」と文末が名詞で結ばれており、「体言止め」が用いられています。

 

「岩に爪たてて空蝉泥まみれ」の鑑賞文

 

この句は、「岩に爪たてて」の部分にセミの生命力の強さが感じられます。

 

一方で、「空蝉」という表現については、セミの魂が空になった様子が記されており、命のはかなさが伝わってきます。

 

泥まみれになりながら長い歳月にわたって、命を育んで来た小さなセミの幼虫が、必死に岩に爪をたてて成虫になり、羽ばたいていったのでしょう。

 

小さな昆虫でさえも、その命を全うすべく全力で未来に羽ばたいていこうとしているとも、句の主旨を捉えることができます。

 

またその反面で、長い歳月地中で成虫になるために生き抜いて来たのに、殻を脱皮してセミ本来の姿になったあとは、そう長くは生きられないとも読み取れる作品です。

 

三鬼は幼少期から病弱であり、成人した後も肺の病で闘病生活を過ごして来ました。だから、小さな蝉の命に負けずに自分も頑張って生きなければならないと感じたのかもしれません。

 

作者「西東三鬼」の生涯を簡単にご紹介!

 

西東三鬼こと本名斉藤敬直は、1900年(明治33年)に現在の岡山県津山市に生まれました。

 

幼少期に父を、さらに母を流行り風邪で亡くした三鬼は、長兄の扶養になって日本歯科医学専門学校(現座の日本歯科大学)に進学します。

 

卒業と同時期に結婚した三鬼は、当時シンガポールで暮らす長兄を頼り、渡航して歯科医院を開院しました。しかし、国際情勢の変化や病気により、帰国して歯科医師として活躍します。

 

三鬼は患者の勧めもあり、33歳の時に俳句の世界に足を踏み入れて、新興俳句の先駆者としてメキメキとその才能を開花させて行ったそうです。

 

特定の師には付かずに、「ホトトギス」「馬酔木」などの俳諧誌に投稿を続け、自ら新興俳句各紙の連絡機関として1934年に「新俳話会」を設立。1935年には同人誌「扉」を創刊するなど、新興俳句を代表する先頭者として注目を集めます。

 

しかし、その内容が当時の時代背景に対して、あまりにも斬新過ぎたために、1940年(昭和15年)には、左翼的な活動として検挙されてしまいました。

 

今後、句作をしないことを条件に釈放された三鬼は、歯科医師業もやめて、商社マンとして単身神戸に出向きます。神戸で執筆したエッセイ『神戸』は三鬼の最高傑作とも言われています。

 

その後、さまざまな紆余曲折があり、東京に戻った三鬼は角川書店『俳句』編集長を務めるものの、わずか1年で辞任。それから6年後の1962年(昭和37年)に胃がんでこの世を去りました。

 

伝統俳句の型にはまらない、三鬼の作品は当時としてはモダンであり、新興俳句運動を牽引する指導者の一人でした。

 

西東三鬼のそのほかの俳句