季節ごとにさまざまな情景をみせてくれる自然や、日常の中の風物から受ける感動を印象的に短い言葉で表現することのできる「俳句」。
五・七・五の十七音で構成される俳句は、とくに愛好者がたくさんいます。
今回は、そんな数ある句の中でも有名俳人・高浜虚子の詠んだ「流れ行く大根の葉の早さかな」という句をご紹介します。
流れ行く大根の葉の早さかな 虚子
大根はアブラナ科で、芥子菜など
似ている葉が多い。「大根の葉とわかる」&「速い→早い」
どぶ水でなく、多分、清流。この句から私にはある情景が浮かんだ。
早朝の共同の洗い場で、談笑しながら
朝採れ野菜を洗う農家の奥さんたちが見える。 pic.twitter.com/BWwvvPQGpn— 俳句新派 (@shonan2591) July 18, 2019
よく耳にする句ではありますが「本当はどういう意味なんだろう?」と思われている方もいらっしゃるかと思います。
そこで今回は、「流れ行く大根の葉の早さかな」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきます。
目次
「流れ行く大根の葉の早さかな」の季語や意味・詠まれた背景
流れ行く 大根の葉の 早さかな
(読み方:ながれゆく だいこんのはの はやさかな)
こちらの句の作者は「高浜虚子」です。
高浜虚子は、明治期に生まれ、近代俳句の父・正岡子規の薫陶を受け、さらにそれを発展させていった有名な俳人です。
季語
この俳句の季語は「大根」。季節は「冬」になります。
大根の旬は冬。今でこそ一年中手に入る大根ですが、じつは冬の季語なのです。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「冬の小川の水の流れに、大根の葉が流されていったが、なんと早かったことよ」
という意味になります。
なぜ川に大根の葉が流れていたのかというと、上流で収穫したばかりの大根を洗っている人がいたのでしょう。
こちらの句はありきたりな日々の営みが生み出す一瞬の光景を鋭く切り取った句になります。
この句が詠まれた背景
こちらの句は、昭和3年(年)、虚子が東京郊外の九品仏の句会の帰りに遭遇した光景から生まれた俳句とされます。
虚子はこの句について・・・
「フトある小川に出た。橋上に佇むでその水を見ると、大根の葉が非常な早さで流れて居る。之を見た瞬間に今まで心にたまりたまつて来た感興がはじめて焦点を得て句になつたのである」
(歩いているうちに、ふとある小川のほとりに出た。橋の上に立ち止まり、小川を流れゆく水をながめていると、上流で大根を洗っていものであろうか、大根の葉が非常なはやさで流れ去っていたのであった。この様子を見た瞬間に、今まで心の中にたまりつつあった感興、面白みを感じる想いが一気に高まり、一句として結実したのである。)
と述べています。
畑で大根を収穫した人が、小川で大根の泥を落としていたのでしょう。
その時、大根からちぎれ落ちた葉が虚子の目の前で小川の水に流されていったことが、句を読むきっかけとなったのです。
畑の近くの小川で大根を洗うといった光景は、なにも東京の九品仏に限ったことではなく、この当時の郊外や農村部では普通にあったことでしょうし、この句に描かれた光景は日本のどこの光景であってもおかしくない普遍性があったといえます。
「流れ行く大根の葉の早さかな」の表現技法
「早さかな」の切れ字「かな」
俳句の一句の中の感動の中心を表す言葉として、切れ字というものがあります。
近代以降の俳句で特によくつかわれる切れ字は「や」「かな」「けり」の三つがあります。
この句の切れ字は「早さかな」の「かな」です。「かな」は「…だなあ、…であることよ」といった意味で訳され、軽めに強調したり、感動していることを表します。
「はやいことであるなあ」と、大根の葉の流されていくスピードに目が留まり、この一句が生まれたということなのです。
「流れ行く大根の葉の早さかな」の鑑賞文
「流れ行く大根の葉の早さかな」は、冬の小川の流れていく大根の葉、清冽な水の冷たさ、青々とした大根の葉の緑色が感じられる句です。
大根の葉が作者の目に留まって、流れ去るまで、時間にしたらごくわずかのことだったでしょう。しかし、作者はその一瞬を決して見逃さず、一句を詠み出しました。
この句に切り取られた光景は、一瞬のことで、ささやかな出来事です。
しかし、そこに暮らす人々のたしかな息遣いを感じ取ることができるのです。
高浜虚子は、俳句を詠むにあたって・・・
- 「花鳥諷詠」・・・花や鳥といった自然の美しさを詩歌に詠みこむこと
- 「客観写生」・・・客観的に情景を写生するように表現しつつ、その奥に言葉で表しきれない光景や感情を潜ませる
といった考え方を提唱しました。
「流れ行く大根の葉の早さかな」の一句にも、「花鳥諷詠」「客観写生」の精神を読み取ることができます。
作者「高浜虚子」の生涯を簡単にご紹介!
(高浜虚子 出典:Wikipedia)
高浜虚子は、明治7年(1874年)現在の愛媛県松山市、旧松山藩の藩士である士族の家に生まれました。
同郷の士には、短歌や俳句の新しい可能性を模索し近代詩歌文学の礎を築いた「正岡子規」、子規の弟子の「河東碧梧桐」がいます。
若き日の高浜虚子は、河東碧梧桐と共に正岡子規に師事し、俳句の道を歩むこととなります。
文学に情熱を燃やした正岡子規は不幸にして夭逝、子規の弟子の双璧と呼ばれた河東碧梧桐と高浜虚子でしたが、碧梧桐は新傾向の俳句を追い求め、虚子は伝統を重んじ保守的な作句を極めていくこととなります。
正岡子規が創刊に関わった俳句雑誌「ホトトギス」の主宰として長く日本の俳壇を牽引し、昭和29年(1954年)には文化勲章を受章しました。
そして、昭和34年(1959年)、享年85歳で生涯を閉じました。
高浜虚子のそのほかの俳句
(虚子の句碑 出典:Wikipedia)