【鉄鉢の中へも霰】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

日本の伝統文化「俳句」。

 

俳句には、五七五の定型を守る「定型俳句」と、自由な言葉の流れで作る「自由律俳句」があります。

 

「自由律俳句」は決まったリズムがなく、読み手が自由に俳句を想像し楽めることも魅力です。「自由律俳句」の代表といえば、種田山頭火をご存じの方も多いでしょう。

 

今回は、種田山頭火の有名な俳句の一つ鉄鉢の中へも霰という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「鉄鉢の中へも霰」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「鉄鉢の中へも霰」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

鉄鉢の中へも霰

(読み方:てっぱつのなかへもあられ)

 

この句の作者は、「種田山頭火(たねださんとうか)」です。

 

明治から昭和を生きた俳人で、全国各地を放浪。自由律俳句を好み、旅先で優れた俳句をたくさん詠みました。

 

 

季語

この句の季語は「霰(あられ)」、季節は「冬」です。

 

「霰」は、雪の結晶に雲の水滴が付着してでき、白く小粒の玉となって降ってくる氷の粒のことです。

 

霰は気温の冷え込む朝や夕方に多く見られ、さっと降り、すぐに止みます。落ちた時にはパラパラと音を立て地面などで跳ねます。霰が付く季語は他にも、初霰/夕霰/玉霰/雪あられ/氷あられ/急霰などがあります。

 

しかし、こちらの俳句は自由律俳句のため、季語なしの「無季句」と考える説が一般的です。

 

山頭火自身が歩んで来た俳句人生を考えると、季節にとらわれずに自分の思いを自由に表現したと考えられます。以上の理由から、こちらの俳句は季語を持たない「無季句」であると言えます。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「とても寒い冬の日、托鉢(たくはつ)に歩いている。霰(あられ)が空から落ちてくる。その霰が鉄鉢の中にも落ち、入ってくる。」

 

という意味です。

 

「鉄鉢」とは、僧侶が托鉢のときに食べ物などを受け取る際に用いられる鉄製の丸い鉢のことで、仏道修行の象徴とされています。また、「托鉢」は、僧侶が経を唱えながら歩き、各家の前に立ち、食べ物や金銭を鉄鉢に受けて回ることです。

 

山頭火は冬の寒い日に托鉢をしていました。すると、パラパラと霰が降ってきて山頭火が手に持っていた鉄鉢の中にも霰が入ってきたという句です。空の鉄鉢に音を立て霰が打ち付ける様子が想像でき、寒さが感じられます。

 

この句が詠まれた背景

この句は、福岡県北九州市の遠賀川の河口にあたる芦屋町を托鉢していたときに詠んだ句と言われています。

 

この句は昭和7年(1932年)、山頭火が50歳の頃に詠んだ句であり、俳句雑誌『層雲』の昭和73月号で初めて発表されました。

 

また、山頭火の『行乞記』において、下記のような記載があります。

 

昭和7年1月8日【今日はだいぶ寒かった。一昨六日が小寒の入、寒くなければ嘘だが、雪と波しぶきとをまともにうけて歩くのは行脚らしすぎる】

 

上記の文章の後、「木の葉に笠に音たてて霰」の句と共に、「鉄鉢の中へも霰」の句が記されています。

 

「鉄鉢の中へも霰」の表現技法

自由律俳句

この句は十三文字で作られており、俳句の基本的な五七五(十七文字)の定型と離れた自由律俳句です。

 

俳句には、伝統的な五七五の定型を守り花鳥諷詠の美学をもつ「定型俳句」と、字数・季題にとらわれずにことばの調べによって作られる「自由律俳句」があります。

 

自由律俳句は、無駄を全て除いた「一行詩」として、世界で最も短い詩形であるとされています。

 

自由律俳句の特徴には、切れ字や、文語、季語にこだわらず口語で作られることが多いという点があげられます。

 

自由律俳句は荻原井泉水が提唱したもので、弟子である種田山頭火はその代表といえる俳人なのです。

 

「霰」の体言止め

体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める表現技法です。

 

体言止めを使うことで、美しさや感動を強調したり、読んだ人を引き付ける効果があります。

 

「霰」と言い止める表現にすることで、パラパラと鉄鉢の中で跳ねる霰の存在がより強調されています。

 

「鉄鉢の中へも霰」の鑑賞文

 

山頭火は「鉄鉢の句について」と昭和8年に自句自解している中で、「煩悩や甘えを脱し切れない自分を打つ霰」と言っています。

 

山頭火は寒い中を托鉢し歩き続ける中で、自分自身の行いや存在について省みたのではないでしょうか。

 

「鉄鉢の中へ霰」ではなく「鉄鉢の中へも霰」と表現していることで、霰が鉄鉢だけではなく、自分自身や地面にも打ち付けていることが想像できます。

 

何も得られず悲しい状況の中、自分を打ち、鉄鉢に入る霰を見ながら歩き続ける山頭火の姿が思い浮かびます。

 

作者「種田山頭火」の生涯を簡単にご紹介!

(種田山頭火像 出典:Wikipedia

 

種田山頭火は、明治15年(1882年)山口県佐波郡西佐波令村、現在の山口県防府市に生まれました。 本名は、種田正一(たねだしょういち)といいます。

 

大地主であった種田家に5人兄弟の長男として育ちますが、10歳の時に母を自死で亡くし、祖母に育てられました。

 

明治29年、私立周陽学舎(現在の山口県立防府高等学校)に入学。その頃には、学友と文芸同人誌を発行していました。山頭火が本格的に俳句を始めたのは、明治30年、15歳の頃からと考えられています。

 

明治35年に早稲田大学大学部文学科に入学しますが、神経衰弱のため退学。その後は、東京で過ごしていましたが、病状が回復しなかったため、実家に戻ります。

 

その後、父が種田酒造場を開業しますが、失敗してしまい、防府に残っていた種田家の家屋敷は全て売却されました。

31歳の時に荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)に師事し、「山頭火」の号で俳誌『層雲』に自由律の作品を発表しました。

 

大正5年、種田家が破産してしまい、熊本で古書店を開業しますが、上手くいきませんでした。その頃、弟が自死するという悲しい出来事もあり、山頭火は毎日お酒を大量に飲むようになりました。

 

関東大震災に遭い、熊本に戻りますが、大正13年に報恩寺で出家します。大正15年には、西日本を中心に旅をしながら俳句を詠み、旅先から俳誌『層雲』に投稿しました。山頭火は、昭和7年から放浪した全国各地の旅先で、自由律の句をたくさん詠みました。

 

昭和151011日、脳溢血のため、58歳で亡くなりました。

 

種田山頭火のそのほかの俳句

種田山頭火生家跡 出典:Wikipedia)