【蛍獲て少年の指緑なり】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

五・七・五の十七音に季節や心情を詠む「俳句」。

 

宿題として俳句作りに取り組んだことのある方も多いのではないでしょうか。

 

今回は数ある名句の中から「蛍獲て少年の指緑なり」という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「蛍獲て少年の指緑なり」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「蛍獲て少年の指緑なり」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

蛍獲て 少年の指 緑なり

(読み方:ほたるえて しょうねんのゆび みどりなり)

 

この句の作者は「山口誓子(やまぐちせいし)」です。

 

俳句雑誌「ホトトギス」を代表する俳人のひとりです。明治に生まれ、大正、昭和、平成のはじめまで活躍しました。

 

 

季語

この句の季語は「蛍」、季節は「夏」です。

 

「蛍」は発光する昆虫で、初夏の風物詩としても有名です。

 

「蛍」は、熱帯から温帯の雨の多い地域に生息し、アジアの各地域で見ることが出来ます。

 

夜の蛍の発光を鑑賞する「蛍狩り」は、古くから行われてきました。近年は、環境破壊がすすみ、蛍の生活できる場所も少なくなってきています。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「蛍をつかまえて、かごにいれようとしている少年の指が、蛍の光で緑色に光っている」

 

という意味です。

 

蛍は、交尾の合図として雄雌ともに発光します。光の色は緑色だけでなく、黄色やだいだい色などもあります。

 

蛍を誤ってつぶしてしまって緑色の体液が出たのではないかとも捉えられそうですが、指でつぶしてしまったわけではありません。

 

この句が詠まれた背景

この句は1950年に発表された句集「青女」に収められています。

 

誓子は「自選自解山口誓子句集」において、こう書き残しています。

 

昭和22年(1947年)に三重県保々村(現在、村は廃止されています)へ招待されて泊まり、その家の少年と少女(姉弟)と一緒に蛍狩りをした際に詠んだ句である。

 

「弟は、少年であった。その少年は、蛍を捕って、それをつまんで、かごに入れようとした。そのとき、つまんでいる親指と人差指を蛍の碧い光が照らした。」と解説しています。

 

「蛍獲て少年の指緑なり」の表現技法

句切れなし

一句の中で、意味・リズムの上で大きく切れるところを句切れと呼びます。普通の文でいえば句点「。」がつくところで切れます。

 

しかし、この句には途中で切れるところがありませんので「句切れなし」の句となります。

 

ちなみに、「なり」は助動詞で、断定「~である」という意味です。

 

「蛍獲て少年の指緑なり」の鑑賞文

 

山口誓子は、少年と少女と蛍狩りをした時の様子を句に詠んでいます。

 

【自選自解山口誓子句集】において、「蛍をつまんだ少年の指が、さっきまで一緒に歩いていたときは普段と変わらなかったのに、蛍をつまんだときには緑色に光っていた」と述べています。

 

誓子は、少年が蛍をつかまえた一瞬の動作に心を動かし、俳句を詠んだ様子が想像できます。

 

また、この俳句は緑色の光が印象的です。実際に誓子が見た蛍の光は「碧い光」で、「碧い」色は青色ではなく、緑がかった深い青緑色をさします。

 

少年が追いかけて一生懸命につかまえた暗闇の中の小さな命の光が、より深く神秘的に感じられます。

 

また、その命を壊れないようにそっと持つ少年の繊細さも伝わってきます。

 

「山口誓子」と「蛍」について

 

山口誓子は蛍や蛍火の句を多く詠んでいます。

 

その中でも、誓子が実際に蛍のいる場所に訪れて詠んだ句を一つご紹介します。

 

【 流蛍の 自力で水を 離れ飛ぶ 】

(読み方:りゅうけいの じりきでみずを はなれとぶ)

 

意味は、「飛び交う蛍が、自分の力で水から離れ飛んでいる」です。

 

この句は、大阪府高槻市にある摂津峡を訪れて詠んだものです。

 

 

摂津峡とは、高槻市を南北に流れる芥川の中・上流域に位置し、渓谷の豊かな自然が感じられる大阪の景勝地のひとつです。

 

誓子は、渓谷と舞う蛍にたいへんに感動して、この句を詠みました。

 

現在、摂津峡は自然公園として、温泉やキャンプ場、渓流釣りなどの施設があり、四季折々の自然が楽しめるハイキングスポットとなっています。

 

道の途中には、誓子の詠んだ【流蛍の 自力で水を 離れ飛ぶ】の句碑が建っています。

 

この摂津峡では、今でも夏の蛍が風物詩となっています。誓子が見て感動した光景と、同じ光景を楽しめそうです。

 

(摂津峡 出典:Wikipedia

 

作者「山口誓子」の生涯を簡単にご紹介!

(山口誓子 出典:Wikipedia)

 

山口誓子は、明治34年(1901年)、京都府京都市にて生まれました。本名は、新比古(ちかひこ)といいます。

 

高浜虚子に師事しており、それまでは、本名の新比古をもじって誓子(ちかひ(い)こ)の号を名乗っていましたが、初対面の虚子に「せいし」と呼ばれたことから、こちらの読みを取りました。

 

昭和初期には、水原秋櫻子と高野素十、阿波野青畝らとともに俳句雑誌「ホトトギス」にて活躍し「ホトトギスの4S」と呼ばれていました。

 

しかし、水原秋櫻子に従い「ホトトギス」を離脱し、従来の俳句にはなかった都会的な素材や、知的・即物的な句風を試し映画理論に基づいた連作俳句を試みるなど、新興俳句運動の指導的存在として活躍しました。

 

戦後も俳句誌「天狼」を主宰し現代俳句のリーダーとして俳壇をけん引し数々の賞を受賞しました。そして1994年に、92歳でなくなりました。

 

山口誓子のそのほかの俳句

( 摂津峡にある句碑 出典:Wikipedia