【真っ白き障子の中に春を待つ】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

五・七・五の十七音で、作者の心情やその時々の風景を綴り詠む「俳句」。

 

自分で俳句を作るのは難しく思われるかもしれませんが、作者の心情や背景に思いを馳せてみれるのも俳句の楽しみ方のひとつです。

 

今回は、松本たかしの有名な句の一つ真っ白き障子の中に春を待つをご紹介します。

 

 

本記事では、「真っ白き障子の中に春を待つ」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「真っ白き障子の中に春を待つ」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

真っ白き 障子の中に 春を待つ

(読み方:まっしろき しょうじのなかに はるをまつ)

 

この句の作者は、「松本たかし(まつもとたかし)」です。

 

明治後期から昭和前期を生きた俳人で、高浜虚子に師事し、晩年は俳誌「笛」を主宰しました。

 

季語

この句の季語は「春を待つ」、季節は「冬」です。

 

「春を待つ」は「春待つ」と同意で、重苦しく寒い冬を過ごしたのち、明るい春を待ち望む心を表します。「待春(たいしゅん)」とも言います。

 

この句の「春」は、暖かい季節の始まりを表す春ではなく、新春=新年を指していると思われます。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「障子を張り替えて、周囲が真っ白に清々しくなった部屋の中にいて、ひたすらに新春を待っていることだ。」

 

という意味です。

 

「真っ白き障子」とは、張り替えたばかりの障子のことです。

 

今ではあまりないかもしれませんが、当時は、新年を清々しい気持ちで迎える準備として、年末の大掃除の時に家族総出で、部屋の障子を張り替えていました。

 

家中の障子を張り替えるのはとても大変な作業です。新しい障子に張り替えられ、真っ白になりパッと明るくなった部屋の中で、新年を待つ気持ちを詠んでいます。

 

この句が詠まれた背景

松本たかしは、14歳のとき肺尖カタル(現代の肺結核)を患いました。

 

現代では治療法のある病ですが、当時は治療法もなく、とても大変な病でした。

 

昭和31(1956)50歳で亡くなりますが、晩年は床に伏せることが多かったそうです。

 

この句は、その晩年に詠まれたと言われています。

 

新しい年を迎えるためにキレイに張り替えられた真っ白な障子の清々しさと、体調が悪く、なかなか窓の近くまで行って見ることのできない、その障子で分けられた部屋の外に見えるであろう冬の風景を想像して詠んだのでしょう。

 

「真っ白き障子の中に春を待つ」の表現技法

「障子」と「春を待つ」の季重なり

「障子」と「春を待つ」は、どちらも冬の季語です。

 

このように、一つの句の中に二つ季語が入っていること「季重なり」と言います。

 

どちらも季語として使われていますが、この句で作者が一番伝えたかった言葉は「春を待つ」だと考えられます。

 

ですので、「障子」ではなく、「春を待つ」が季語とされることが多いです。

 

句切れなし

俳句では、意味やリズムの切れ目を句切れといいます。

 

この句には、切れ字や言い切りの表現が含まれないため、「句切れなし」となります。

 

「真っ白き障子の中に春を待つ」の鑑賞文

 

こちらの句は一つひとつの言葉が合わさって、その情景と作者の心情をしっかりイメージできる句です。

 

「真っ白き 障子」で、新年に向けて新しく張り替えられた障子と、障子の向こう側にある雪景色までもをイメージすることができ、その情景が目に浮かびます。

 

「障子の中に」という言葉で、外の世界ではなく、作者が部屋の中にいるということが強調されているように思われます。

 

「春を待つ」には、新しく張り替えられた真っ白な障子を前に新年を待つ様子、やがてくる暖かい春という季節を心待ちにする様子、自分の病気が冬から春に移り変わるように良くなる、良くなって欲しいというような気持ちが感じられます。

 

松本は、子どもの頃からの病気で、能の名門の家に生まれながら夢であった能楽者への道をあきらめました。

 

ですが、厳しい能の稽古を受けていたこともあり、詠む俳句は、特に「美意識」に優れていると言われています。

 

病気の身体で不安な中、病床で新しく張り替えられた障子の白さを通し、新年や暖かい季節の春を待つという、状況は悲しく寂しいですが、とても美しい言葉の表現で、この句に触れた人には新年を心待ちに待つ明るさをもたらす句に感じられます。

 

作者「松本たかし」の生涯を簡単にご紹介!

 

松本たかしは、明治39年(1906年)東京都神田猿楽町、現在の東京都千代田区に生まれました。 

 

本名は孝(たかし)といい、父は長(ながし)という能役者で、家は代々幕府に仕える能役者の名門の家系でした。

 

6歳の頃から能の稽古に励み、9歳で初舞台を踏みましたが、14歳の時に肺尖カタル(現代の肺結核)と診断され、静岡県静浦で療養しました。その時に、お見舞いに訪れた父が「ホトトギス」を置いていき、15歳の時、俳句に興味を持ち始めました。

 

父の能仲間の句会「七宝会」にも入り、大正12年より高浜虚子に師事しました。

 

ずっと能楽者を目指していましたが、21歳の頃に病気のことで断念し、大正15年頃より鎌倉の浄明寺の草庵に入り、本格的に句作を始めました。

 

昭和4年には、訪問看護師であった高田つやと結婚し、それからは夫婦で作句を楽しみました。

 

戦後、昭和21年に俳誌「笛」を創刊、主宰し、没年まで後進を指導しました。

 

昭和23年には能の師匠であった宝生九郎をモデルにした伝記小説「初神鳴」を発表し、のちに「獅子の座」として映画化もされました。

 

師匠である高浜虚子は「たかし君の句は上品で美しい」と評し、能楽の名門の家に生まれ日々厳しい稽古を経て得た美意識が、作品に気品と香気を与えました。

 

終生、病弱に悩みましたが、物心一如を説き、ひたすら写生に徹して作品を作り続けました。晩年は病気でよく部屋で伏せることが多く、昭和31(1956)50歳で亡くなりました。

 

松本たかしのそのほかの俳句