五・七・五のわずか十七音に心情や風景を詠みこむ「俳句」。
俳句は日本だけでなく、海外でも親しまれています。
今回は、有名俳句の一つ「炎天の地上花あり百日紅」という句をご紹介します。
この猛暑の中、百日紅 (さるすべり)が元気に咲く。
二階に届きそうなほど高く。
暑さに負けず、空に向かって色鮮やかに姿美しく咲き誇る。
身も心も美人さんだな百日紅。
かくありたい…「炎天の 地上花あり 百日紅」
高浜虚子 pic.twitter.com/AJTcJwxQsK— みっちょ (@miccho63) August 3, 2015
本記事では、「炎天の地上花あり百日紅」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「炎天の地上花あり百日紅」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
炎天の 地上花あり 百日紅
(読み方 えんてんの ちじょうはなあり さるすべり)
この句の作者は「高浜虚子」です。
高浜虚子は明治から昭和にかけて活躍した俳人です。
高浜虚子は、俳句とは自然の美しさをに詠みこむ「花鳥諷詠」なものであり、情景を客観的に写生して表現し感情を詠みこむ「客観写生」という俳句の理念を掲げ世に広めた人でもあります。
季語
この句の季語は「百日紅」、季節は「夏」です。
百日紅は、さるすべり・ひゃくじつこうとも読みます。
真夏に木に鮮やかな紅色や白色の花を咲かせ、園芸用としても人気が高いです。
春から夏にかけて100日間、花を咲かせることから百日紅という名前になりました。また、木の幹がつるつるしていて、猿がのぼろうとしてもすべってしまうことから、さるすべりと呼ばれています。
【CHECK!!】貴重なり
この句には、もうひとつ季語があります。
「炎天」です。炎天は、夏の季語です。
太陽の日差しが強く、焼けつくような真夏の空をさします。このように、1つの句に季語が2つ以上ある場合を季重なりといいます。俳句は、季語を1つとすることが基本のため、季重なりは避けたほうがよいとされます。
しかし、俳句のなかでどちらの季語が主役の役割か、はっきりしている場合や同じ季節の季語を重ねて、季節を強調させている場合は、季重なりでも良いとされます。
この場合、「炎天の」は「地上」を修飾しています。そのため、どちらが主役かを考えると百日紅になります。季語も、組み合わせ次第では、季重なりとはならないのです。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「焼けつくような真夏の地上に百日紅の花が咲いている」
という意味です。
百日紅は木に花を咲かせます。ぎらぎらと暑い地面から、上を向いてみると鮮やかな百日紅が咲いていたという真夏の一日を思わせます。
また、「地上花あり」と書いてあると、「地上花(ちじょうか)」という花が「あり」なのか、「地上」に「花あり」なのか、どこで区切ってよいのか迷ってしまう方もいるかと思います。
この場合、初句の「炎天の」は、「地上」にかかっています。「地上花」と呼ばれている花や植物もありません。
以上のことから、「炎天の地上」に「花あり」と考えることができます。
この句が詠まれた背景
高浜虚子は、昭和6年9月、57歳の時に短編「百日紅」という文章を書いています。
簡単にまとめてみると・・・
「俳句を作り始めるときに、初めて百日紅を見た(見たことがあっても気にしたことはなかった。)。庭に植えて季節を通して観察してみると、百日紅についていろいろなことがわかった。しかし、いろいろ観察しても、頭の中ではあの初めて見た時の、真夏の炎天下にすべっこい肌を持った木の真っ赤な花を想像してしまう。正岡子規に俳句を習い始めたときに見た時、熱心に花を見上げている若い自分の姿もはっきりと見える」
熱心に俳句を学んだ自分の姿と、俳句の題材となった百日紅を一生懸命に観察する虚子の姿が浮かんできます。
「炎天の地上花あり百日紅」の表現技法
「百日紅」の体言止め
体言止めは、句の終わりを名詞や代名詞などの体言で止める技法です。
体言止めを用いることで、美しさや感動を強調する、読んだ人を引き付ける効果があります。
「百日紅」の名詞で体言止めすることによって、読んだ人の目線を鮮やかな百日紅の花にむけさせ、より強調されています。
「炎天の地上花あり百日紅」の鑑賞文
高浜虚子は、14歳の頃に正岡子規に出会い、そこから俳句を教わるようになります。
(正岡子規 出典:Wikipedia)
短編「百日紅」では、子規に俳句を教わって一生懸命に百日紅を見上げていた自分を思い出しています。
百日紅の木を大人になって、自分の庭にも植えてみて熱心に観察していたけれど、思い出すのはあの炎天下の百日紅だと、虚子の思い出も混じっている句です。
真夏の暑い日に咲いている百日紅がぱっと目に浮かぶ、夏の句のひとつです。
作者「高浜虚子」の生涯を簡単にご紹介!
(高浜虚子 出典:Wikipedia)
1874年(明治7年)2月に現在の愛媛県松山市湊町に生まれました。
9歳のときに祖母の実家の高浜家を継ぎ、本名は高浜清といいます。
14歳の頃、同級生の河東碧梧桐に正岡子規を紹介され、俳句を教わるようになります。
虚子という号は、正岡子規から1891年に授かりました。本名の「清」が由来とされています。
17歳の頃、子規の正式な弟子となり、体の弱かった子規から後継者として指名されますが、それを拒否しています。
24歳の頃に俳誌「ほととぎす」を引き継ぎ、和歌や散文を加えて俳句文芸誌としました。
1902年に正岡子規が亡くなると、俳句の道をやめ、小説家として執筆を行います。
河東碧梧桐が五・七・五調のかたちにとらわれない新しい俳句の形を掲げた新傾向俳句に対抗するため、再び俳壇に復帰しました。
1927年(昭和2年)に、花や鳥といった自然の美しさを詩歌に詠みこむ「花鳥諷詠」、客観的に情景を写生するように表現しつつ、その奥に言葉では表現しきれない光景や感情をひそませる「客観写生」という俳句の理念を掲げました。
俳壇に君臨した虚子は20万句(見つかっているのは2万2千句ほど)もの俳句を詠み、俳句文芸誌「ほととぎす」からは多くの俳人が育っていきました。
1959年4月、鎌倉市由比ガ浜の自宅で85歳にて永眠しました。
高浜虚子のそのほかの俳句
(虚子の句碑 出典:Wikipedia)