五・七・五の十七音で、作者の心情や見た風景を綴り詠む「俳句」。
季語を使って表現される俳句は、とても短い言葉の表現の中で、作者の心情や自然の姿などに触れることができます。
今回は、高浜虚子の有名な句の一つ「山国の蝶を荒しと思はずや」という句をご紹介します。
山国の蝶を荒しと思はずや 高浜虚子 #俳句 pic.twitter.com/L497QivCOw
— 蜂谷一人 (@puffin_hitori) March 12, 2019
本記事では、「山国の蝶を荒しと思はずや」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「山国の蝶を荒しと思はずや」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
山国の 蝶を荒しと 思はずや
(読み方:やまぐにの ちょうをあらしと おもわずや)
この句の作者は、「高浜虚子(たかはまきょし)」です。
高橋虚子は明治、大正、昭和と3つの時代を生きた俳人です。小説家でもあり、「客観写生」「花鳥諷詠」の理念を提唱しました。
季語
この句の季語は「蝶」、季節は「春」です。
「蝶」と季語に使う場合は、春の季語になります。
蝶は日本では約250種類ほど知られており、一年中見ることができます。そのため、季節ごとに色々な蝶に関する季語があります。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「春深いこの山国で、蝶がひらひらと飛び回っている。その飛び方がなんとも荒々しい感じがある。あなたもそう思わないだろうか、いや私は思う。」
という意味です。
虚子は、疎開先でこの句を詠みました。
俳句の中で「思はずや」と、相手に「思う」か「思わないか」と問いかけているように読めますが、虚子は自分の感性を強く確信し、「山国の蝶は荒々しいと感じた」と言い切っています。
この句が詠まれた背景
この句は句集『六百句』(昭和22年)に所収されており、昭和20年(1945年)ごろ、虚子が70歳の頃に詠まれたとされています。
昭和19年、日本では戦争が激しくなり、足の不自由な妻を心配した虚子は空襲の危険がある鎌倉から信州小諸へ疎開しました。
信州小諸の虚子庵で疎開生活を送る中で出来た句です。
のちに、高浜虚子の長男、年尾(としお)が、「虚子庵を裏へ出て、虚子の散歩道と称しているなぞえの畑の中の道を、三人で散歩した時の句です」と言っています。(『定本高浜虚子全集第二巻』)
息子の年尾と京の俳人、田畑比古が虚子庵を訪れた時に、三人で散歩をした後、三人だけで句会をしたそうです。その時に、虚子が二人に示した句です。
「山国の蝶を荒しと思はずや」の表現技法
打ち消しの「ず」と反語の「や」
俳句の三句目(結句)にある、「思わずや」。
「思はず」の「ず」は打ち消しの表現をし、その後に反語の意味を持つ「や」がありますので、意味は「思わないだろうか、いや思う」という複雑な表現になっています。
句切れなし
「句切れ」とは、言葉の意味や内容、俳句のリズムの切れ目のことです。
「や」「かな」「けり」などの切れ字のあるところで、意味が区切れることが多く、切れ字は句の切れ目を強調するときや、作者が感動を表すときに使います。
この句では、切れ字によく使われる「や」が三句目(結句)にありますが、今回は「反語」の意味として使われています。
俳句の最後まで意味が句切れているところがありませんので、「句切れなし」となります。
「山国の蝶を荒しと思はずや」の鑑賞文
この句は住み慣れた鎌倉から離れ、疎開先の厳しい暮らしの中で見た蝶について詠んだ句です。
普段、何気なく見ている蝶は、ひらひらと繊細で可憐なイメージです。
しかし、住み慣れた場所から離れ、山奥で厳しい暮らしをする日々。虚子にはそこで飛ぶ蝶が荒々しい飛び方をしているように映ったのでしょう。
普段見ている繊細や可憐というイメージとは違い、山国の中で飛ぶ蝶が荒々しく感じられたのは、戦時中の疎開先という厳しい生活があったからでしょう。
虚子が感じた蝶のイメージをストレートに相手に投げかける句で、この句を詠んだ後、自然の中で逞しく、激しく飛ぶ蝶が目に浮かびます。
作者「高浜虚子」の生涯を簡単にご紹介!
(高浜虚子 出典:Wikipedia)
高浜虚子は、本名を高浜清(たかはまきよし)といい、明治7年(1874年)愛媛県温泉郡長町新町、現在の愛媛県松山市湊町に生まれました。
池内(いけのうち)正忠の五男として生まれましたが、9歳の時に祖母の実家である高浜家を継ぎ、高浜清となりました。
明治21年、伊予尋常中学校(現在の愛媛県立松山東高校)に入学し、河東碧梧桐と同級となり出会います。碧梧桐を介し、正岡子規に師事し、俳句を学びました。
そして明治24年、17歳の時に、子規に本名の「清(きよし)」に由来した「虚子(きょし)」の号を授かります。
明治26年に碧梧桐とともに、京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に入学しました。翌年に学科改変のため、碧梧桐とともに仙台の第二高等学校(現在の東北大学教養部)に転学するも中退。その後、上京し、子規庵に身を寄せました。
明治30年には、「大畠いと」と結婚します。翌年に萬朝報に入社しますが、病気の母の看病で松山に帰っている長期欠勤を理由に除籍され、生活が困窮しました。
子規の支援を受け、俳誌『ホトトギス』を引き継ぎ、東京で俳句以外にも和歌や散文なども載せる俳句文芸誌として、夏目漱石などからも寄稿を受けました。
明治35年に子規がなくなった後、俳句を詠むことはやめ、小説の執筆に没頭しました。明治43年には一家で鎌倉に移住し、以後亡くなるまで50年間鎌倉で暮らしました。
大正2年、河東碧梧桐が進める新傾向俳句に危機感を感じ、対抗するために俳壇に復帰しました。
伝統的な五・七・五調、季語を重んじる姿勢を大切にし、客観的に情景を写生し、その中に奥深い主観を潜ませる「客観写生」、花や鳥など自然の美しさを表現する「花鳥諷詠」を提唱しました。
昭和29年には文化勲章も受賞しましたが、昭和34年(1959年)に鎌倉の自宅で85歳で亡くなりました。
生涯で20万句の俳句を詠んだとされていますが、現在確認できる俳句は約2万2000句と言われています。
高浜虚子のそのほかの俳句
(虚子の句碑 出典:Wikipedia)