五・七・五の十七音で、作者が見た風景や心情を写し出す「俳句」。
季語を使って表現される俳句は、短い言葉の中で、作者の心情やその自然の姿を感じることができます。
今回は、正岡子規の有名な句の一つ「梅雨晴れやところどころに蟻の道」という句をご紹介します。
梅雨晴れや
ところどころに
蟻の道 …子規 pic.twitter.com/otfIWdxThX— yyga2 (@kan2gaku2) June 8, 2014
本記事では、「梅雨晴れやところどころに蟻の道」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「梅雨晴れやところどころに蟻の道」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
梅雨晴れや ところどころに 蟻の道
(読み方:つゆばれや ところどころに ありのみち)
この句の作者は、「正岡子規(まさおかしき)」です。
明治を代表する文学者で、日本の近代文学にとても大きな影響を与えました。俳句だけではなく、短歌、小説、随筆など多彩な創作活動をしていました。
季語
この句の季語は「梅雨晴れ」、季節は「夏」です。
「梅雨晴れ」は、梅雨の間に時々見られる晴天のことです。
どんよりとした梅雨の季節に、晴天の明るい日差しを感じると心が明るくなります。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「うっとうしい梅雨の季節に、雨が止んだので日の照りつける外に出てみると、まだ乾いていない地面の上に、蟻の行列があちらこちらにできている。」
という意味です。
梅雨の時期は雨が降りっぱなしで、あちらこちらに水溜りができ、働き者の蟻たちも雨の間は活動できずに休んでいます。そんな蟻さんですが、梅雨の合間の晴れた瞬間、再び忙しそうに列を作って働きはじめました。そんな蟻さんたちの様子を俳句にして詠んでいます。
この句が詠まれた背景
この句は、昭和16年初版の『子規句集』に収められています。
明治21年(1888年)ごろ、子規が21歳の時に詠まれたとされています。
「梅雨晴れやところどころに蟻の道」の表現技法
「梅雨晴れや」の切れ字
切れ字は主に「や」「かな」「けり」などがあり、句の切れ目を強調するときや、作者が感動を表すときに使います。
この句は「梅雨晴れや」の「や」が切れ字にあたります。
「や」で句の切れ目を表すことで、雨が降りっぱなしの梅雨では珍しい晴天を、しみじみ感じている様子を表しています。
また、五・七・五の五の句、一句目に切れ目があることから、「初句切れ」となります。
「蟻の道」の体言止め
体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める表現技法です。
体言止めを使うことで、美しさや感動を強調する、読んだ人を引き付ける効果があります。
「蟻の道」と言い切ることで、梅雨の合間に働く蟻に、新鮮な驚きを感じていることが伝わります。
「梅雨晴れ」と「蟻」の季重なり
「梅雨晴れ」と「蟻」は、どちらも夏の季語です。
このように一つの句の中に二つ季語が入っていることを「季重なり」と言います。
どちらもいろいろな俳句で季語として使われていますが、この句で作者が一番伝えたかった言葉は「梅雨晴れ」だと考えられます。
そのため、この句では「蟻」ではなく、「梅雨晴れ」が季語とされています。
「梅雨晴れやところどころに蟻の道」の鑑賞文
作者は雨が続く梅雨の晴れた日にふと下を見て、蟻の行列を見つけました。
雨がやっと止んだ貴重な日に、蟻たちは待ちかねていたように、あちらこちらで長い行列を作って働いています。そんな日常の中にある身近な光景を俳句に詠みました。
晴天に喜ぶ蟻たちを微笑ましく見つめ、梅雨の晴れ間を喜ぶ気持ちを作者も同じように共感したのかもしれません。
梅雨の晴れ間は心がパッと明るくなります。梅雨の時期はついつい雨が気になり空ばかり見てしまいますが、作者は目線を下に向けてみて、蟻たちの微笑ましい様子を見つけました。
この句を思い浮かべると、日常の中にある小さな幸せが感じられます。
作者「正岡子規」の生涯を簡単にご紹介!
(正岡子規 出典:Wikipedia)
正岡子規は、本名を正岡常規(まさおかつねのり)といい、慶応3年(1867年)伊予国温泉郡藤原新町、現在の愛媛県松山市花園町に生まれました。明治5年、5歳の時に父親を亡くしました。
そして明治13年に旧制松山中学に入学しますが、明治16年に中退し、上京しました。その4年後には大学予備門に入学し、この頃に夏目漱石と出会います。
しかし、明治22年に喀血し、肺結核と診断されました。この時期にホトトギスの句を作り、「子規」と号するようになります。
翌年、帝国大学哲学科に進学しますが、文学に興味を持ち国文科に転科しました。この時期は「俳句分類」の仕事に着手し、子規は古句研究に励みました。
明治25年に大学を中退し、新聞「日本」に入社します。『獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)』の連載を始め、形式化した俳諧を批判し、俳句革新の一歩を踏み出しました。この頃から、書簡で同郷の後輩である河東碧梧桐、高浜虚子に俳句指導を始めます。
子規は客観性の高さから与謝蕪村を高く評価し、子規自身も客観的な「写生」に基づいた文学を実践、推進しました。
明治28年、日清戦争の従軍記者として赴きますが、帰りの船上で喀血し、療養します。療養中に『俳諧大要(はいかいたいよう)』を連載し、自らの俳句理論を体系的な形に完成させました。
その後は病床に臥すことになりましたが、文学に専念し、句誌『ホトトギス』の編集を高浜虚子に命じ、多くの新人を育てました。病床での生活を綴った『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』など優れた随筆を残し、明治35年、肺結核のため35歳の若さで亡くなりました。
病気で喀血した子規は、「鳴いて血を吐く」と言われているホトトギスの漢字表記「子規」を自分の俳号としました。長く病気と闘いながらも文学の革新に尽力した子規は、明治の文学の創始者と言えます。
正岡子規のそのほかの俳句
(前列右が正岡子規 出典:Wikipedia)