「俳句」は五・七・五の十七音に季語や風景、心情を詠みこむものです。
有名な俳句は、国語の授業などで目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。
今回は、有名俳句の一つ「高嶺星蚕飼の村は寝しづまり」という句をご紹介します。
調べもの(倭文神社)中に見かけた俳句。
「高嶺星 蚕飼の村は 寝しづまり」(水原秋桜子)
なんとなーく、色々ご存じの上で詠まれたのでは?と勘ぐってしまいました。
そうでなくても、よい句だなぁ。— かっぱきのこ (@TypeH_Inukappa) February 10, 2014
本記事では、「高嶺星蚕飼の村は寝しづまり」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「高嶺星蚕飼の村は寝しづまり」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
高嶺星 蚕飼の村は 寝しづまり
(読み方:たかねぼし こがいのむらは ねしずまり)
この句の作者は、「水原秋櫻子(みずはら しゅうおうし)」です。
大正時代から昭和後期にかけて活躍した俳人で、産婦人科の医師としても働いていました。俳句雑誌「ホトトギス」で活躍しました。
季語
この句の季語は「蚕飼(こがい)」、季節は「春」です。
養蚕は「ようさん」とも言い、桑の葉を栽培してその葉を食べる蚕を飼い、蚕の繭から生糸(絹)を取ります。
その方法は弥生時代に中国から日本へ伝わったとされ、江戸時代に生糸が重要な輸出品となったために生産が盛んになりました。現在では養蚕農家は減少傾向にありますが、新しい技術開発も進められています。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「山に囲まれた、蚕で生計を立てていて普段は忙しい村も、夜にはしんと寝静まっていることだ。山頂にきらりと星が輝いており、静かな村を照らしている。」
という意味です。
高嶺星(たかねぼし)とは、高嶺、つまり山頂のような高いところに輝く星のことです。
高嶺星は特定の季節の星ではないので、季語ではありません。俳句では、他の季語や情景を引き立たせるために、この星を句に詠んでいるものもあります。
秋櫻子は句の調べを重視して、叙情性のある俳句を多く詠みました。日ごろのあわただしさとは違う、村の静けさと、その村を照らす高嶺星にしみじみとした趣を感じたのかもしれません。
この句が詠まれた背景
この句は、1930年(昭和5年)4月に発表された句集「葛飾」に収められています。
この句集は秋櫻子の第一句集で、俳句雑誌「馬酔木(あしび)」より発行されています。俳句の調べを大切にし、叙情性豊かな句集として世間からは好評を博しました。
しかし、師である高浜虚子は客観写生を重んじていたため、秋櫻子の作品を評価しませんでした。その後、態度を硬化させていった秋櫻子は、俳句雑誌「ホトトギス」を離脱します。
この句は名句として知られますが、虚子には届かなかったようです。
「高嶺星蚕飼の村は寝しづまり」の表現技法
初句切れ
句切れとは、意味やリズムの切れ目のことです。
句切れは「や」「かな」「けり」などの切れ字や言い切りの表現が含まれる句で、どこになるかが決まります。
この句の場合、初句(五・七・五の最初の五)に、「高嶺星」の名詞で区切ることができるため、初句切れの句となります。
「寝しづまり」の表現
「寝静まる」という動詞をそのまま終止形ではなく「寝静まり」という連用形で使っています。
そうすることで、「寝静まっている、そして…」と何かこのあとに続くのではないかと読み手に想像させる(余韻を残す)効果があります。
「高嶺星蚕飼の村は寝しづまり」の鑑賞文
養蚕業はとても大変な仕事です。当時は、農業と兼業でやっているところが多く、春・夏・秋と年に3回、生産ができるため、常に忙しく大変な時は昼夜を問わず働いていました。
そんな忙しい村が、今日は疲れたのか、ひと段落したのか、ひっそりと寝静まっている様子を詠んでいます。
また、蚕は常に桑の葉をぱりぱりと食べているため、ざわざわとした音が止むことはありません。そんな蚕の音も聞こえない、しんとした空気を感じることが出来ます。
そして、この句では「高嶺星」という表現が、句の美しさを強調しています。
高嶺という言葉から、「高嶺星」は手の届かない、まるで夢か幻でもあるような美しく光る星が想像できます。
また、この村は高嶺にある、つまり山々に囲まれた盆地だとも推測されます。
騒がしい街の中の星でもなく、家の多い平野の星でもない、人里離れた静かな山に囲まれた土地の静寂が、空に美しく光る「高嶺星」により、いっそう強調されます。
作者「水原秋櫻子」の生涯を簡単にご紹介!
(1948年の水原秋桜子 出典:Wikipedia)
水原秋櫻子は、1892年(明治25年)10月9日に現在の東京都千代田区神田猿楽町に生まれました。本名は水原豊(ゆたか)です。
産婦人科を経営する病院の家庭に生まれました。1914年に東京帝国大学医学部へと入学し、家業の産婦人科を継ぎます。
1918年に、高浜虚子の「進むべき俳句の道」を読み俳句に興味を持ちました。先輩に誘われ、投句を始め、松根東洋城に師事します。俳句雑誌「ホトトギス」にも投句を始め、1921年より高浜虚子に師事するようになりました。1929年より、山口誓子、阿波野青畝、高野素十らとともに「ホトトギスの四S」として知られるようになります。
のちに客観写生を重んじる高浜虚子に評価されず、高浜虚子や比較の対象となった高野素十を批判し「ホトトギス」を離脱します。この行動は、虚子の客観写生の考えに疑問を抱いていた俳人の共感をよび、そこから新興俳句運動が起こっていきました。
その後も医師としてだけでなく、俳句の普及にも大きく貢献し活動を続けていきました。
1981年7月17日に心不全のため77歳にて亡くなりました。
水原秋桜子のそのほかの俳句
- 来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり
- 瀧落ちて群青世界とどろけり
- 冬菊のまとふはおのがひかりのみ
- 麦秋の中なるが悲し聖廃墟
- 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々
- 梨咲くと葛飾の野はとの曇り
- 葛飾や桃の籬も水田べり
- ふるさとの沼のにほひや蛇苺