【麦秋の中なるが悲し聖廃墟】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

俳句が大勢の方に共感されるのは、再現性にあると言われています。

 

作者の感じたものがどのようなものであったか、読み手が句から様々な角度で想像できるということです。

 

その中でも「麦秋の中なるが悲し聖廃墟」は悲しさが伝わる句として知られています。

 

 

作者は自分の悲しみ度合いをどのように伝えようとしたのでしょうか?

 

本記事では、「麦秋の中なるが悲し聖廃墟」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきます。

 

俳句仙人

ぜひ参考にしてみてください。

 

「麦秋の中なるが悲し聖廃墟」の季語や意味・詠まれた背景

 

麦秋の 中なるが悲し 聖廃墟

(読み方:ばくしゅうの なかなるがかなし せいはいきょ)

 

この句の作者は「水原秋桜子(みずはら しゅうおうし)」です。

 

大正時代から昭和後期にかけて活躍した俳人です。

 

高浜虚子に師事し、昭和初期には「ホトトギスの四S」(水原秋桜子、山口誓子、高野素十、阿波野青畝)の一人と称されました。

 

後にホトトギスを離脱し、客観写生ではなく主観を詠む新興俳句が流行するきっかけを作っています。

 

 

季語

この句の季語は「麦秋(ばくしゅう)」で、季節は「夏」です。

 

麦秋とは、麦が収穫を迎える時期のことで初夏にあたります。

 

特に西日本では5月下旬が刈り入れ時期と言われており、梅雨前に収穫作業を終える必要があります。

 

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一般的に作物は秋に収穫時期を迎えることから、麦の収穫時期は「麦の秋」「麦秋」と呼ぶようになりました。

 

意味

この句を現代語訳すると・・・

 

「麦が豊かに実り刈り入れを迎える時なのに、廃墟となった浦上天主堂を見ると悲しくてたまらない。」

 

という意味になります。

 

この句が詠まれた背景

この句は、水原秋桜子が1952年頃に詠み、句集「残鐘」に収録されています。

 

この時秋桜子は長崎県を訪れ、原爆投下後の(再建前の)浦上天主堂を見ていました。

 

浦上天主堂は爆風によって原形をとどめないほどに破壊され、一部の外壁を残す以外は瓦礫の山になっていました。原爆投下当時、建物の中に司祭や信徒がおり、瓦礫の下敷きになって亡くなっています。

 

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そのような出来事のあった無残な原爆遺構を見て、秋桜子は惨状を句にしました。

 

(原爆投下前の浦上天主堂 出典:Wikipedia

 

(原爆投下後の浦上天主堂 出典:Wikipedia

 

「麦秋の中なるが悲し聖廃墟」の表現技法

字余り

字余りとは「5・7・5」の俳句の定型に対し、音が多いことを表します。字余りとすることで、独自のリズムに仕上がりインパクトのある作品になります。

 

こちらの作品では、「中なるが悲し」の部分が字余りです。

 

「なかなるがかなし」は、中句でありながら8音と1音オーバーしており、字余りとなっています。

 

体言止め

体言止めとは、俳句の結びを名詞で止める表現技法で、そのシーンをイメージしやすくなります。また、同時にインパクトのある作品に仕上がり、読者の記憶に残りやすい俳句となります。

 

今回は「聖廃墟」が体言止めにあたります。

 

聖廃墟は廃墟となったキリスト教会、つまり浦上天主堂のことを指します。天主堂が原形をとどめていない様子が印象的に「廃墟」として詠まれ、句を終えても続く悲しさを伝えています。

 

二句切れ

句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことです。

 

今回は二句目「中なるが悲し」の「悲し」が終止形。つまり、二句目で一旦意味が切れていますので、「二句切れ」となります。

 

二句切れ自体に効果があるのではありませんが、前半が文章として成立するため、読み手は前半の内容を読みこむ必要があります。

 

「麦秋の中なるが悲し聖廃墟」の鑑賞文

 

【麦秋の中なるが悲し聖廃墟】は、惨状を目の当たりにし、やるせない気持ちが句になっています。

 

前半の「麦秋の中なるが」がポイントになっています。

 

麦秋は夏の季語でもありますが、その時期がどれだけ素敵な季節であるかも秋桜子は伝えています。梅雨前の爽やかな時期であり、麦の実った畑は穂で黄金色になります。

 

つまり、「とても気候が良く美しい時期であるというのに」という意味も含んでいます。

 

文としては「美しいものがあるのに悲しいと言い切る+悲しさの原因が「聖廃墟」」という構造を取っています。

 

天主堂の現況を伝えるよりも気候の美しさを前半に述べることで、比較された聖廃墟の惨状が際立ちます。

 

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比較対象があることで、秋桜子は天主堂の無残な姿に対して言い尽くせないほどの悲しみや虚しさを感じており、読み手も句をイメージすることで感じ取ることができます。

 

【補足情報】浦上天主堂の被爆遺構について

(倒壊した天主堂 出典:Wikipedia

 

浦上天主堂には、後述の歴史のためにほとんど被爆遺構が残されていませんが、主に3つの遺物がのこされています。

 

被爆マリア像

1929年(昭和4年)、聖堂に取り付けられた祭壇には木製の聖母マリア像が装飾されていました。

 

終戦後にマリア像の頭部が浦上出身の野口嘉右衛門神父によって瓦礫の中から発見され、トラピスト修道院や長崎純心大教授・片岡弥吉によって保管されていたものです。

 

1990年に浦上天主堂に返還され、200589日より一般公開されています。

 

天主堂の鐘楼

別名を「アンジェラスの鐘」とも呼ばれています。

 

原爆によって吹き飛ばされた天主堂の北側の鐘楼の一部が、天主堂の北方約30mの地点に落下したものが現在でも現地で保存されています。

 

被爆時のままに保存されている旧天主堂本体唯一の遺構です。

 

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南側の鐘楼に設置され後に瓦礫の中から発見された大鐘はほぼ無傷で発見され、「長崎の鐘」として知られています。

 

被爆十字架

日本の降伏後、長崎に進駐したアメリカ軍の兵士が浦上天主堂の廃墟から発見したものです。

 

アメリカ合衆国に持ち帰り、オハイオ州ウィルミントン大学平和資料センター で保存されていましたが、20198月に教会に返還され、20229月には教会側から被爆十字架のレプリカを寄贈しています。

 

浦上天主堂の再建

天主堂遺構の保存については、被爆直後の194510月に市議会にて保存を訴えています。

 

しかし、第五福竜丸事件などによる反米感情の悪化や核に対する反感が高まる中で、再建費用を出す代わりに被爆遺構を撤去し、新しく建て直すことを要求されました。

 

様々な政治的思惑により被爆した旧天主堂は撤去され、1959年に現在の浦上天主堂が建てられています。

 

しかし、これらはあくまで再建であり、原爆による被害を現在に伝えるものではないため、広島にある原爆ドームのように世界遺産に登録されることは無くなったと遺恨を残している再建でもありました。

 

作者が見た浦上天主堂は被爆してほぼ原型を留めていないものであり、現在の遺構が撤去され再建されたものではありません。

 

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当時を偲ぶものはマリア像や大鐘のみとなり、政治的な思惑と平和思想の衝突を表す建造物となったことに、作者とは違った意味での悲しみを覚える場所です。

 

作者「水原秋桜子」の生涯を簡単にご紹介!

(1948年の水原秋桜子 出典:Wikipedia

 

水原秋桜子(しゅうおうし)。本名は水原豊(ゆたか)。1892年生まれ1981年没。東京都出身の俳人です。

 

代々産婦人科を営む家系の長男として生まれ、秋桜子も産婦人科医、医学博士として活躍します。

 

1921年に高浜虚子が主催する「ホトトギス」に参加し、高野素十・阿波野青畝・山口誓子と並び評され「ホトトギスの四S」と呼ばれる新進気鋭の俳人として知られます。

 

しかし、虚子の写実(出来事をありのまま詠むこと)に対して、秋桜子は相容れず離反します。その後は俳誌「馬酔木」(あしび)の中心人物として活躍しました。

 

秋桜子の作風は都会的で近代的な要素が入った洗練された句が多くあります。

 

感情を隠すことなく詠む姿勢が伝統的な俳句とは一線を画した新しい作風であると評され、新興俳句運動の中心人物となりました。

 

水原秋桜子のそのほかの俳句