日本に古くから伝わる文章の一つである俳句。
最近では、授業で習ったり趣味としてよむ人も多くなってきました。授業以外でもテレビ番組などで耳にする機会も増えてきましたね。
今回は、そんな数ある俳句の中でもよく耳にする「毎年よ 彼岸の入りに 寒いのは」という句をご紹介します。
毎年よ
彼岸の入りに
寒いのは
正岡 子規 pic.twitter.com/yl3d2yNfKG
— 桃花 笑子 (@nanohanasakiko) February 26, 2014
こちら句は精錬された言葉が並び、奥深い味わいがあるため、「この句について詳細を知りたい!」という方も大勢いらっしゃるかと思います。
本記事では「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」の季語や意味・表現技法・作者について徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」の作者や季語・意味・俳句が詠まれた背景
毎年よ 彼岸の入りに 寒いのは
(読み方:まいとしよ ひがんのいりに さむいのは)
この句の作者は、「正岡子規」です。
正岡子規は、漢詩や書画の素養も持ち合わせ、和歌や俳諧といった国文学の研究もよくし、短歌や俳句という近代の短型詩を語るのに外せない業績を持つ人物です。
季語
こちらの句の季語は「彼岸の入り」、季節は春です。
彼岸とは、春分の日を中日とした3月下旬の7日間を春の彼岸、秋分の日を中日とした9月の7日間を秋の彼岸と言います。
彼岸の入りとは、彼岸の最初の日のことです。
「暑さ寒さも彼岸まで」ということわざもありますが、冬の寒さも夏の暑さもそれぞれ春の彼岸、秋の彼岸あたりをこえると厳しさがやわらぎ、本格的に季節の移ろいを感じることができると言われます。
この句は、「彼岸の入りの日に寒い」と言っていますので、春の彼岸の入りのことを指します。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「毎年のことである、彼岸の入りでまだ寒さがのこっているのは」
という意味になります。
この句が詠まれた背景
この句のいうところの「彼岸の入り」は明治26年(1893年)3月のことです。
この句には、【母の詞自ずから句となりて(母のふとつぶやいた言葉がそのまま句となって)】という前書きがついています。
つまり、子規が「彼岸の入りを迎えたのにまだ寒いね」といった言葉を母にかけ・・・母は「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」と返答。その母の言葉をそのまま子規は俳句としたのです。
【母の詞自ずから句となりて】という前書きを用いたのは、当時にしてみたら新たな試みでもありました。
「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」の表現技法と鑑賞
この句で使われている表現技法は・・・
- 「毎年よ」の切れ字「よ」による初句切れ。
- 倒置法
の2つあります。
「毎年よ」の切れ字「よ」による初句切れ
近代の俳句でよく用いられる切れ字は、「や」、「かな」、「けり」の三つであるとよく言われます。
「~であることよ」、「~だなあ」といったほどの意味合いで感動の中心、詠嘆の意を伝える言葉(表現技法)です。
この句では「毎年よ」の「よ」が切れ字としての働きをしています。
「よ」は文法的に言えば、文意を強める用法の終助詞です。
「毎年のことだよ」と詠嘆する気持ちがこめられているといえるでしょう。
倒置法
倒置法は、言葉の順序を普通の並びとは逆にする表現技法で、意味を強める働きがあります。
この句は、普通の日本語の順序でいえば、「彼岸の入りに寒いのは毎年のことよ」となります。
そこを「毎年よ」をあえて先に持ってくることで、毎年いつも寒いねえ、今年も寒いねえ、というように、言葉に強い印象を与えています。
鑑賞
「暑さ寒さも彼岸までというけれども、彼岸の入りを迎えてもまだ寒い、ああ、毎年彼岸の入りはこのように寒の戻りがあることだ」という生活の中のふとした気持ちの動きがストレートに切り抜かれて表現されています。
日常の中の、ふと口に出た母の言葉を俳句として切り取ったところに、俳人正岡子規の新しいセンスがある句です。
作者「正岡子規」の生涯を簡単にご紹介!
(正岡子規 出典:Wikipedia)
正岡子規は1867年(慶応3年)、愛媛県松山市で生まれました。
子規というのは俳号で、本名は常規(つねのり)といいます。幼い頃は升(のぼる)という幼名もありました。
幼い頃から漢詩や俳諧など江戸時代から続く国文学にも親しみ、短歌や俳句の革命運動を進め、近代文学史に名を遺す偉人となりました。
文学の分野に限らず進取の気鋭にも富み、明治時代初期にベースボールが伝わってくると、子規はこのスポーツに夢中になりました。
打者、走者といった用語の多くは子規が訳語を考案したといわれました。
ベースボールに野球という訳語をあてたのは正岡子規であるという俗説もあるようですが、正確には別の人物が野球と訳したと言われています。
若くして結核という難病を得た子規は、野球をプレイすることは断念せざるを得ませんでしたが、俳句、短歌、随筆、評論と文学史上に偉大な業績を残し、明治35年(1902年)享年34歳で死去しました。
正岡子規のそのほかの俳句
(子規が晩年の1900年に描いた自画像 出典:Wikipedia)
- 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
- 紫陽花や昨日の誠今日の嘘
- をとゝひのへちまの水も取らざりき
- 赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり
- 夏嵐机上の白紙飛び尽す
- 牡丹画いて絵の具は皿に残りけり
- 山吹も菜の花も咲く小庭哉
- 毎年よ彼岸の入りに寒いのは
- 雪残る頂ひとつ国境
- いくたびも雪の深さを尋ねけり
- 柿くふも今年ばかりと思ひけり
- 鶏頭の十四五本もありぬべし