
江戸時代の曹洞宗の僧侶である「良寛」。
彼は型に拘らない率直な表現をよしとしており、後世に多くの歌を残しました。
「良寛」の著作集成は幾つもありますが、今回は高木一夫氏著「沙門良寛」に掲載されている「散る桜 残る桜も 散る桜」という句について紹介していきます。
sakura road🌸✨
『散る桜 残る桜も散る桜』
今はどんなに美しく綺麗に咲いている桜でもいつかは必ず散る。
そんな大切なことを心得ながら生きていきたいですね。#東京カメラ部 #PASHADELIC #Lightroom #KyotoStyle #そうだ京都行こう #iPhone越しの私の世界 #寫眞倶楽部 #写真の奏でる私の世界 pic.twitter.com/EGIdGmIUDQ— でらっくす(まっちゃん iPhone) (@macchan358) February 27, 2018
本記事では、「散る桜 残る桜も 散る桜」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきます。
ぜひ参考にしてみてください。
目次
「散る桜残る桜も散る桜」の季語や意味・詠まれた背景
散る桜 残る桜も 散る桜
(読み方:ちるさくら のこるさくらも ちるさくら)
こちらの句の作者は「良寛(りょうかん)」です。
良寛は江戸時代後期に活躍した曹洞宗の僧侶で、歌人や書家としてもその名を残した人物です。
季語
こちらの句の季語は「桜」、晩春の季節になります。
晩春と言う言葉は、あまり聞きなれないかと思いますが、これは旧暦が関係しているためです。
旧暦では春を「初春」「仲春」「晩春」の三つに分け、「三春」と呼んでいました。晩春は大体4月5日頃から5月5日頃とされています。
しかし、晩春はこの時期だけでなく、春全体をも指していると言われています。
ですので、桜の開花から散って新緑を迎える頃までと考えていいでしょう。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「散っていく桜があれば、未だ美しく咲き放っている桜もある。しかし、結局どちらも最終的に散る。」
という意味になります。
今まさに散りゆく桜があるとき、例え今はどんなに美しく咲き誇っていても桜は必ず散るものだと言い切っているのです。
この句が詠まれた背景
一説では、この句は「良寛」の辞世の句とされています。
人間は死から逃れることはできないと言う命を諦めた句にもとれます。
しかし、禅の教えでは諦めるとは真実を明らかにする「明らめる」という意味だそうです。それを明らかにすることこそが、あきらめるということなのです。
「良寛」は、この句を通して命とは何なのかを問いかけているのです。
「散る桜残る桜も散る桜」の表現技法
この句には・・・
- リフレイン(反復法)「散る桜」
- 体言止め「散る桜」
の二つの技法が用いられています。
リフレイン(反復法)「散る桜」
リフレインとは、おなじ言葉を繰り返すことで、その言葉を強調する技法のことです。
この句では、「散る桜」と言うおなじ言葉が二回使われています。
「散る桜」と言う言葉を繰り返すことで、命とは儚いものだと強調されています。
体言止め「散る桜」
「体言止め」とは、名詞や代名詞の体言で締め括る技法のことです。
体言止めを用いることによって動詞や形容詞を省略でき、読み手はその部分を想像することになるため、頭の中で情趣を浮かべやすくします。
今回の句においては、二つ目の「散る桜」に体言止めが使われています。
残っている桜もいつか必ず散るという避けては通れない命の儚さをより強く印象つけています。
初句切れ
句切れとは、意味やリズムの切れ目のことです。
句切れは「や」「かな」「けり」などの切れ字や言い切りの表現が含まれる句で、どこになるかが決まります。
この句の場合、初句(五・七・五の最初の五)に、「散る桜」の名詞で区切ることができるため、初句切れの句となります。
「散る桜残る桜も散る桜」の鑑賞文
この句は「散る桜」と言う言葉を使うことで、輝く命や美しく咲く花も、儚く散ると言うまさに、生命の一生を美しくも儚く表現しています。
仮に今生き残ったとしても、いつかは必ず終わりが来ます。
しかし、桜は散るだけでは終わりません。
花は散ってもまた新しい生命が宿ります。人の一生も同じで死してなお魂は巡り、新たな生命となって生まれてきます。
まさにこの句は、生命の美しさ儚さ、そして強さをも表しているのです。
「散る桜残る桜も散る桜」の補足情報
(神風特攻隊 出典:Wikipedia)
特攻隊との関係
この句は、桜を人に見立てることで人の一生をも表現していますが、以下のように解釈することもできます。
- 「散る桜」は、死地に向かう人。
- 「残る桜も」は、それを見送る人。
- 「散る桜」は、見送った人もまた死地へと向かう。
今日生き残れても明日は自分の番。特攻隊は「散る桜 残る桜も 散る桜」に自身を重ね、この句を辞世の句とした人も多かったと言われています。
そして、儚い命だからこそ、この句は江戸時代から時を越え、昭和の時代特攻隊の辞世の句としても知られていくようになったのです。
「散る桜」を良寛の辞世の句とする根拠
「散る桜 残る桜も 散る桜」は、実は良寛の臨終の際の記録にも、良寛の俳句をまとめた句集にも全く出てこない俳句です。
この句が辞世の句とされたのは、とある古民家から出てきた反故紙に下記の文章が記されていたためです。
「良寛禅師重病之際、何か御心残りは無之哉と人問しに、死にたうなしと答ふ。又辞世はと人問しに、散桜残る桜もちる桜」
しかし繰り返しになりますが、この俳句は他の臨終の様子を記した文献には出てこないのです。
別の俳句が辞世の句ではないか?
良寛を看取った貞心尼は、『はちすの露』という書物に良寛の最期の句をこう綴っています。
「うらを見せおもてを見せてちるもみぢ
こは御みづからのにはあらねど、時にとりあひのたまふ、いといとたふとし」
(訳:裏を見せて、表を見せて散る紅葉よ
これは良寛自らの句では無いけれど、時々口にしていた句である。なんと尊いことか)
つまり、桜ではなく紅葉を詠んでいます。
実弟の記した臨終の様子にも「散る桜」の句は出てこないため、「散る紅葉」に結びつけた逸話として付け加えられたものではないかという説もあるほどです。
辞世の句を詠めなかった?
良寛の臨終の様子は他に3通りの記述があります。
1つ目は「良寛に辞世あるかと人問はば南無阿弥陀仏と言ふと答へよ」です。
これは玉木礼吉『良寛全集』が出典とされていますが、良寛と同時代に書かれたものではありません。
2つ目は「良寛が辞世を何と人問はば死にたくないというたとしてくれ」ですが、これは一休禅師の臨終の言葉と同じであるため、逸話として付け加えられたものだろうと考えられています。
3つ目は、「阿(あ)」とだけ言ったという逸話です。
これは貞心尼とともに良寛の最期を看取った「証聴」という人の「良寛禅師碑銘並序」にあるエピソードです。
そこには、以下の内容が記されています。
「終るに臨み環坐咸(みな)遺偈を乞ふ。師即ち口を開いて阿(あ)と一声せしのみ。端然として坐化す。実に是(これ)同暦二辛卯正月六日、世壽七十四、法臘五十三なり」
(訳:良寛がいよいよ臨終をむかえようとする時、人々は輪をつくって遺偈(ゆいげ)、すなわち禅僧がこの世で最後につくる詩の形を取った教えを乞うた。すると良寛は口を開いて、「阿(あ)」と一声発した。そのまま端然と坐って亡くなった。天保二年一月六日、七十四歳、僧になってからは五十三年であった。)
こちらでも「散る桜」の句はなく、辞世の句も詠んでいない様子が伺えます。
これらの記述から、病状が悪化し辞世の句を残せなかったという説もあります。
作者「良寛」の生涯を簡単にご紹介!
(隆泉寺の良寛像 出典:出典:Wikipedia)
「良寛」は越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)に名主橘屋、山本家の長男として生まれました。
純粋で人の話を信じる気持ちの強い子でしたが、人付き合いは苦手で読書が何よりも好きだったと言います。
18才の時に一度家督を継ぎ名主見習いとなりましたが、嘘が何よりも嫌いな彼にとって揉め事の仲裁をするその職は、向いていませんでした。その後出家し、曹洞宗獄山光照寺で修行をしました。
そして、34才の時に旅に出て各地を巡ることで和歌や書と出会い、61才の時には乙子神社境内の草庵に居を構えました。
円熟期に達した「良寛」の書は、このときに生まれたとされています。そして74才で亡くなるまで清貧な生活を続け、生けとし生けるものへの愛を失うことはなかったそうです。
彼は特に子ども達を愛しており、積極的に子ども達と遊んでいたと伝えられています。
良寛のそのほかの俳句
(良寛の墓 出典:Wikipedia)
- 新池や 蛙とびこむ 音もなし
- 梅が香の 朝日に匂へ 夕桜
- 春雨や 門松の注連 ゆるみけり
- 水の面に あや織りみだる 春の雨
- 雷を おそれぬ者は おろかなり
- さわぐ子の 捕る知恵はなし 初ほたる
- 手もたゆく あふぐ扇の 置きどころ
- 秋風に 独り立たる 姿かな
- 秋日和 千羽雀の 羽音かな
- 落ちつけば ここも廬山の 時雨かな
- 焚くほどは 風がもて来る 落ち葉かな