昭和に活躍した女性俳人の一人、「橋本多佳子」。
彼女は結婚して四女に恵まれる一方、若くして夫に先立たれ困難を強いられますが、戦後、さらに鍛錬を積み、女性俳人として代表的な存在になっていきます。
今回は、彼女の句集「紅絲(こうし)」から、珠玉の一句「いなびかり北よりすれば北を見る」という句をご紹介します。
いなびかり北よりすれば北を見る 橋本多佳子#推しに教えたい俳句#上野遥 #HKT48 pic.twitter.com/wQOLzKZsgO
— タカシ🐰🍣 (@hktsongs) December 9, 2019
本記事では、「いなびかり北よりすれば北を見る」の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「いなびかり北よりすれば北を見る」の季語や意味・詠まれた背景
いなびかり 北よりすれば 北を見る
(読み方:いなびかり きたよりすれば きたをみる)
この句の作者は「橋本多佳子」です。昭和に活躍した女性俳人の一人です。
当時、俳人にとって神のような存在であった「高浜虚子」や、後に指導を受けることになる「杉田久女(ひさじょ)」を通して、俳句と出会いました。
季語
この句の季語は「いなびかり(稲光)」で、季節は「秋」を表します。
「雷」は「夏」の季語ですが、「稲光」は「秋」の季語になります。
これは、「稲が実る頃に雷が多いことから、雷光が稲の実りをもたらすと古くから信仰されてきたこと」が関係しています。雷から発せられる光が「稲光」と呼ばれる所以でもあります。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「北の空から稲光がしたので、思わず北の空を見た。」
という意味になります。
日常の何気ない動作を瞬時に捉え、ありのままを詠んでいるこの句は、一見淡々としているようですが、詠み手の心意を想像するほどに奥深い作品となっています。(※後程解説します)
この句が詠まれた背景
多佳子は38歳のとき、夫・豊次郎を病で亡くします。
40代に差し掛かる頃には、第二次世界大戦が勃発。多佳子は娘達を連れ、終戦の前年には大阪市から奈良市に疎開し、戦時下を生き抜いていきます。
そして、終戦後間もない昭和21年、彼女の句業の転機となる「奈良俳句会」に身を投じます。
そこで西東三鬼(さいとうさんき)、平畑静塔(ひらはたせいとう)と出会い、夜を徹して厳しい男性陣を前に苦闘しながらも、正面から挑むことにより数々の名句が誕生しました。
こうして、彼女の作品の中でも最高峰の句集とされ、俳人としての地位を確立した「紅絲」が完成したのです。
「いなびかり北よりすれば北を見る」の表現技法
「いなびかり」(初句切れ)
この句の最初の部分「いなびかり」で一呼吸おいて、次の「北よりすれば北を見る」に繋いでいます。
このように初句の部分で切れていますので「初句切れ」の句となります。
句に区切りを入れることにより、この句の主体である「いなびかり」が強調された形になっています。
また、「北よりすれば北を見る」では、全17文字で構成される俳句において、「北」が二度も出てきていることから、作者が特に強調したかったであろうことが分かります。
「いなびかり北よりすれば北を見る」の鑑賞文
この句では、「西」ではなく「北」という方角を敢えて使用しています。
「北」は「不吉な方角」・「寒冷」・「災害」・「不幸」・「寂寥」・「死」・「冥(くら)さ」など・・・総じて、暗い印象を受けます。
なぜ作者は「北」を使用したのでしょうか?
作者は(日常生活の中で)女性が抱える緊張感や不安感を、より強く表現したかったのではないでしょうか?さらに突き詰めて言えば、女性がひとりで生きていかなければならない寂しさや辛さをも託したかったのかもしれません。
作者の心意を考えるとき、夫と死別した事実を避けることはできません。
まだ若い時期に、最愛の夫との永遠の別れを経験した彼女の絶望や孤独は、どれほどに深いものか。経験した者でなければわからないでしょう。
多佳子の人生に大きな影を落とした「夫の死」。それもまた、「北」の意味するところなのかもしれません。
また、この句の最後は、「見る」で締められています。「いなびかり」と平仮名で表すことにより、「稲光」より柔らかさを感じますが、「恐れ」を抱く対象であることに変わりはありません。にもかかわらず、それを「まっすぐに見つめる」のです。
「見る」には、あらゆる辛苦や困難から目を逸らさずに、あるがままを見つめ(受容し)、立ち向かおうとする「人としての強さ」を感じます。
そして、それこそが「命の輝き」を表しているようにも感じられるのです。
作者「橋本多佳子」の生涯を簡単にご紹介!
橋本多佳子は、本名「橋本多満(たま)」。旧姓は「山谷」です。
1899(明治32)年 東京都文京区にて出生。菊坂女子美術学校(現 女子美術大学)で日本画科を専攻しますが、病弱のため中退を余儀なくされます。
大正6年 18歳のとき建築家・実業家の橋本豊次郎と結婚後、大阪へ。その後、豊次郎の赴任地である福岡県小倉市に転居します。
このときの住まいが「櫓山荘」。高浜虚子や杉田久女との出会いの場であり、多佳子の俳句の原点になった場所です。
そして昭和4年 30歳のとき大阪で「山口誓子」と出会い、数年後彼に師事します。これと同時期の昭和10年、水原秋桜子主宰の「馬酔木(あしび)」同人となります。
昭和12年 38歳のとき夫 豊次郎と死別しますが、それ以降、多佳子は句業に専念し、戦後の昭和23年には誓子主宰の「天狼(てんろう)」同人となり、昭和25年には「七曜(しちよう)」を創刊・主宰します。
多佳子は、中村汀女(なかむらていじょ)・星野立子(ほしのたつこ)・三橋鷹女(みつはしたかじょ)の三名とともに「四T」と称され、昭和を代表する女性俳人として名を残しました。
俳句の道に自らの生涯を賭け、昭和38年、病のため64歳でこの世を去りました。
多佳子忌
俳人・橋本多佳子の1963年5月29日の忌日。
いとけなく
植田となりて
なびきをり pic.twitter.com/xtU03ODEwq— 久延毘古⛩陶 皇紀2679年令和元年師走 (@amtr1117) May 28, 2019