「俳句」は、日本の伝統的な文芸でありつつも、常に革新と進化を続けています。令和の現代でも俳句をたしなむ人、鑑賞する人は増える一方です。
時代ごとの世相に合わせて俳句も変わり続けていますが、名句と呼ばれる句はすぐれた文学としての普遍性を持ち、多くの人々に衝撃を与えたり、共感を得たりしています。
今回は、数ある俳句の名句の中から「大寒の一戸もかくれなき故郷」という加藤楸邨の句をご紹介します。
甲斐の山々が美しく観える日は、空気が透き通っていて気温は低く、撮影に行くには体調が良く、相応の覚悟と装備が要る。
「本日は大寒 」
★大寒の一戸もかくれなき故郷 飯田龍太https://t.co/GMFlQKrkdh @wistereasublimeさんから pic.twitter.com/iw4NZVv3Kz— A Story of Love&Hate (@naokisato) January 20, 2018
本記事では、「大寒の一戸もかくれなき故郷」の季語や意味・表現技法・作者について徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「大寒の一戸もかくれなき故郷」の作者や季語・意味
大寒の 一戸もかくれなき 故郷
(読み方 : だいかんの いっこもかくれなき こきょう)
こちらの句の作者は、「飯田龍太(いいだ りゅうた)」です。
こちらの句は、龍太が生まれ育った山梨県八代郡五成村小黒板の故郷のシーンを写実的に表現した作品です。
寒さ厳しい大寒の頃の故郷の寂しい情景とともに、それでも作者にとっては愛着がある土地であることが伺えます。
季語
こちらの句の季語は「大寒」で、季節は「冬」を表します。
「大寒」は、陰暦の1月21日頃を指し、1年の中で一番寒さが厳しい時期を意味します。
意味
こちらの俳句を現代語訳すると・・・
「大寒という寒さが厳しい季節だけに、草木も枯れて家一軒も隠れることなくよく見えるほど、寒々とした故郷である」
となります。
大寒という1年で最も寒さが厳しい時期だけあって、野原の草も枯れ、木々の葉も落ちて見通しのいい故郷の様子をイメージできます。
大寒の頃の故郷の情景を詠んだ作品であり、作者が故郷に寄せる想いが伝わって来ます。
「大寒の一戸もかくれなき故郷」の表現技法
こちらの俳句で使われている表現技法は・・・
- 体言止め「故郷」
- 字余り「一戸もかくれなき」と字足らず「故郷」
- 「かくれなき」の部分の「ひらがな表記」
になります。
体言止め「故郷」
「体言止め」とは、文末を名詞で結ぶ表現技法です。
体言止めを使用することにより、文章全体のインパクトが強まり、作者の伝えたい思いをイメージしやすくなります。
こちらの作品では末尾の「故郷」が体言止めです。この句は、「故郷」で締めくくることによって、寒さが厳しい故郷の情景を読み手が思い描きやすくなっています。
字余り「一戸もかくれなき」と字足らず「故郷」
俳句は、五音・七音・五音の組み合わせが原則です。
しかし、この句は二句目が八音(字余り)、三句目が三音(字足らず)になっており、七音・八音・三音の律音となっています。
だいかんの(5) いっこもかくれなき(8) こきょう(3)
(※俳句の世界では、文字数ではなく音でカウントするため、「いっ」も「きょ」も1音となりますので、2文字と数えないように注意しましょう)
「字余り」「字足らず」は、自分の心情を定型にとらわれずに素直に詠んだ作品に多く、この技法を用いることで、独特のリズム感がある作品に仕上がります。
こちらの作品では、作者が自分の目で見た故郷の情景をダイレクトにありのまま読んでいることが伺えます。
「かくれなき」部分の「ひらがな表記」
「かくれなき」は一般的に「隠れなき」と漢字表記でもいいような気がしますが、こちらではあえてひらがな表記を用いています。
それは「隠れなき」と漢字で表現するよりも、ひらがなの方が故郷の閑散とした様子をイメージしやすくなっています。
「大寒の一戸もかくれなき故郷」の鑑賞文
この句からは、大寒の寒さが一段と厳しい時期の故郷の寒々とした様子がひしひしと伝わって来ます。
春から秋までは野原や木々が青々としており、小高い丘から見下ろしても全ての家は見渡せません。
しかし、大寒の寒さが厳しい季節にもなると、視界を遮っていた木々の葉が全て落ち、村全体にある1軒1軒の家々がよく見渡せるようになるのでしょう。
それほどに大寒の頃になると村は閑散とし、家以外は何もない寂しい状態になることが分かります。
それでも我が故郷が好きという作者の思いも伺える作品です。
また、一段と冷え込みが厳しい大寒の日だけあって、早く暖かい春がやって来ないかなという思いも感じられます。
作者「飯田龍太」の生涯を簡単にご紹介!
飯田龍太は1920年に現在の山梨県笛吹市堺川町小黒板で、父・蛇笏(武治)の4男として生まれました。
(父・飯田蛇笏 出典:Wikipedia)
飯田龍太は幼少のころから病弱で、20代のころには肺の病気で手術を行っています。病弱が理由で、戦争に出征することを免れましたが、長兄と三兄は戦死、次兄も病死したため、四男の龍太が飯田家を継ぐこととなりました。
民俗学者であり、歌人・詩人でもあった折口信夫との出会いをきっかけに、折口が教鞭をとる国学院大学に入学。大学在学中に句を作り始めます。
戦中戦後は一時休学し、山梨で農業もしていましたが、戦後復学して國學院大學を卒業しました。
その後は帰郷し、父・蛇笏の編集する俳句雑誌「雲母」の手伝いをしたり、山梨県立図書館に勤務するなどしました。
1950年代からは俳句の創作活動にいそしむようになり、父の死後は俳句雑誌「雲母」を引き継ぎ、1994年(平成6年)まで主宰をつとめて、900号をもって終刊。事実上俳壇を引退しました。
そして、飯田龍太は平成19年(2007年)に86歳で永眠しました。
飯田龍太のそのほかの俳句
- どの子にも涼しく風の吹く日かな
- 紺絣春月重く出しかな
- 春すでに高嶺未婚のつばくらめ
- いきいきと三月生る雲の奥
- 父母の亡き裏口開いて枯木山
- 一月の川一月の谷の中
- かたつむり甲斐も信濃も雨の中
- 白梅のあと紅梅の深空あり
- 貝こきと噛めば朧の安房の国